まとめ:オートバイ編集部/協力:RIDE編集部、東京エディターズ
ホンダ CB400FOUR 開発総責任者
寺田五郎氏
本田技研工業で1970年代の日本のオートバイ史に名を刻む名車、ホンダ CB400FOUR(通称:ヨンフォア)の開発プロジェクトリーダー(開発総責任者)を務めた。

ホンダ「ドリームCB400FOUR」開発総責任者・寺田五郎氏インタビュー
──1932年、お生まれは浜松だそうですね。
「はい。1932年11月20日、浜松で生まれました。祖父は建具屋で、その血を引いたのか手先が器用でね。工作の成績はいつも“秀”でした。模型飛行機のプロペラをガラス片で削って仕上げたら『買ってきたものだろ!』って先生に怒られました(笑)」
──“五郎”という名にも意味があると。
「祖父が“建具屋の跡取りに”と名付けてくれたんです。五郎正宗、左甚五郎の“五郎”。だから次男なのに五郎なんですよ」
──子供の頃からエンジンと工具に囲まれていたとか。
「実家は寺田モータースといって、自動車やバイクの輸入販売と修理をやっていました。生まれた時から、車とバイク、ガソリンとオイルの匂いの中です。当時のガソリンの匂いってね、今じゃもう嗅げない良い匂いなんですよ」
──終戦直前は飛行士を目指されていたとか。
「ええ。中学を卒業して、千葉の航空機乗員養成所に入りました。特攻機のパイロット養成所です。当時は『お国のため』一心。でも現実は毎日殴られてばかりでしたね。終戦で学校が解散して、焼け野原の浜松に戻りました」
──そこから再びエンジンの世界へ。
「父や兄と一緒に寺田モータースを再建しました。食料の買い出し用にオート三輪やバイクで走り回っていましたが、股の下でエンジンが“ドンドンドン”と回る感覚に興奮しました。ビッグシングルが一番好きです。やっぱり鼓動が伝わるんですよ」

──かなりホンダへの憧れがあったそうですね。
「父の友人が本田宗一郎さんで、よく家に来ては面白い話をしてくれました。『交差点では倍速で突っ切れ!』なんて(笑)。あんな破天荒な考え方に惹かれて、『卒業したらホンダに入ろう』と決めていました」
──しかし、ホンダへの入社を断念されたと。
「父に『経営が苦しい。店を手伝え』と言われて。8年間、自動車とバイクの修理ばかりの毎日でしたよ。壊れた部品を直すより、自分で造ったほうが早い。だから、旋盤でも溶接でも何でもやりました。それに、お客の“心”を直す修理も大事なんです。エンジンが掛からないのは、キックが悪いとか、そういうことが多い。だから『少し調整を変えました』と言って優しく教える。押しつけじゃなく、気持ちを通わせるんです」
──その経験が、後の開発哲学につながったんですね。
「ええ。人と機械の両方を扱うって意味では、修理屋が一番の現場教師でした。やがてオートレース用のエンジンを自作して勝ち続けた頃、再びホンダに惹かれましたが募集がなくてね。先生に相談したら『ヤマハならある』と。受けたら受かっちゃって(笑)、家族に内緒で入社しました」
──ヤマハではレースの世界を経験されましたね。
「ええ、レースが大好きでね。1963年にマン島TTなどを転戦して、フィル・リードのメカを務めました。ホンダのRC164を相手に、伊藤史朗、レッドマン、高橋国光と戦って、本当に燃えました」
──アーチェリーにも熱中されたとか。
「趣味ではじめたのに、気づいたら日本代表(笑)。日本楽器の試作弓のテストも担当させてもらって、仕事も趣味もフル稼働。月200時間残業も苦じゃなかったですね」
──ホンダに戻るきっかけとなった出来事があったんですね。
「ホンダ時代の同期で親友だった人が、海外で事故により亡くなったんです。生前、彼はいつも「ホンダに来い」と誘っていたから、『お前に何かあったら行く』と約束してたんです。そうしたら葬式の一週間後に偶然『本田技研従業員募集』の新聞広告を見ましてね。まるで呼ばれたような気がしましたよ」
──1964年、ついに念願のホンダ入社。
「配属は二輪のクレーム対策部門。派手さはないけれど、ここで本物の技術と知識を手に入れました。目に見えない“弱点”をつぶす経験が、後の設計に役立ったんです」

──そして、CB350FOUR開発のLPL(開発責任者)に
「1972年に任命されました。初めてのLPLでしたが、この350が後のCB400FOURへとつながります。重くて走らない、油温が高すぎる──そんな問題を、『風通しを良くすれば解決できる』と考えた。デザイナーの佐藤允弥さんのスケッチを見た瞬間、『これだ!』と閃きました」
──そのキーワードが“動”だったと
「そう。“動”。CB750FOURが“豪”、CB500FOURが“静”、ならば350は“動”だと。“動の魅力”ですよ。『冒険しすぎだ』と言われても、『動だから』と押し通しました(笑)」
──“ヨンフォア”が誕生した瞬間ですね。
「子供の頃の工作、モータースでの修理、ヤマハでのレース、ホンダでの経験、そして佐藤さんとの出会い。全部がつながっていました。ヨンフォアは偶然じゃない。あのバイクは“必然”の結果なんです」
