協力:バイカーズステーション(遊風社)
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ヨシムラ「GS1000R XR69」(1980)解説

YOSHIMURA
GS1000R XR69
1980年
スズキ製耐久専用フレームにヨシムラチューンの2バルブエンジンを積んだ8耐マシン
1980年3月、ヨシムラはデイトナ・スーパーバイクでクロスビーが優勝と幸先よくシーズンをスタートしていた。ただ、この優勝もヒヤヒヤものだった。GS1000のSTDクランクは組み立て式で、これがことごとく壊れたのだ。前年からこのトラブルに悩まされていたヨシムラは、デイトナに吉村不二雄が3本だけ自作した対策クランクを持ち込んでいた。
これはクランクの圧入部を溶接したもので、バランスより強度を優先したものだ。しかし、このクランクに組み直したのは、デイトナ入りしてからの予選前だったのだ。
こうして対策されたGSエンジンは、耐久用にスズキが製作したフレームに搭載された。スズキがGSで得たRG系の車体のノウハウとヨシムラがGS系をチューンし始めて4シーズン目というお互いの経験が、高いレベルで構築され素性のいいマシンが出来上がった。

1980年の8耐優勝は、情念と奇跡が生んだ 〜Spirit of YOSHIMURA
1980年7月27日、午後8時過ぎ。長かった鈴鹿8耐が終わり、華やかな表彰式が行われている。歓声が聞こえる。けれど、メカニックとは、あくまで裏方の商売。ヨシムラのメカニックだった浅川邦夫さんは、ピット裏を車検場に向かってマシンを押していた。
「やっと終わったなあ」
優勝だった。200周は新記録。けれど、その感激より、レースが終わった安堵の気持ちのほうがはるかに強かった。大きな音に気づいて夜空を見上げると、美しく花火が上がり、その度に歓声が上がる。マシンは重かった。ヨシムラ恒例の徹夜続きで疲れていた。でも、それだけではない。みんなで精根込めて作り、走らせ、そして、200ラップという新記録で優勝したヨシムラ・スズキGS1000Rは、異常に重かった。
「あっ、パンクだ!」
リヤタイヤには、クギがブスッとつき刺さって、エアはほとんど抜け切っていた。
レースの世界には、“たら”も“もし”もない。技術とか理論とか努力では、どうしようもないことだってある。けれど、“運”とか“ツキ”は、周到に準備してこそ、初めて巡ってくるものでもある。
ヨシムラは、1978年の第1回鈴鹿8時間耐久レースに優勝した。ヨーロッパの耐久では無敵だったホンダRCBを、アメリカのスーパーバイクスタイルそのままのGS1000で打ち負かしたのだ。ヨシムラに耐久という意識はなく、終始スプリントペースで8時間を走った。
ライダーのウェス・クーリーもマイク・ボールドウィンも、耐久ライダーとは違ったハングオンスタイルのスーパーバイク乗り。対してホンダ勢は24時間的なスタイル。8耐は、第1回からいきなり世界でも特異なレーススタイルを持ってしまった。そしてヨシムラ対ホンダの対決という構図も出来上がった。
翌1979年は、その対決構図どおりホンダがCB900F改で返り討ち。そして迎えた1980年。耐久レースは世界選手権となり、8耐はその第5戦。そうなれば、各メーカーともこぞってワークスチームでワークスマシンを走らせる。戦いは、ますます厳しくなっていった。
ホンダが強い、というのはAMAを見れば明らかだった。この年からエースに天才フレディ・スペンサーを迎え、巨費を投じてCB750Fスーパーバイクを開発。チームの規模はAMA始まって以来のものだった。
カワサキも黙っていなかった。新人エディ・ローソンが意外な速さを見せ、KZ1000Jもホンダほどではないが確実に走る。また、ホンダ、カワサキともヨーロッパでは耐久チームを編成。もちろんスズキも、同様に耐久チームを持っていた。
そして8耐には、アメリカとヨーロッパから、それまでにない規模でワークスチームが集まった。ホンダはフレディと、前年までスズキでGPを走って、ケニー・ロバーツを追い回していたバージニオ・フェラーリを組ませた。マシンはCBベースのRS1000。
カワサキは、エディとKR250/350で大活躍したグレッグ・ハンスフォード(後に4輪レースで事故死した)。各社の耐久チームもそれぞれワークスマシンだから、1978年までとは明らかにレースのレベルが違う。
でも、1980年はヨシムラが勝つ年なのだ。そういう順番なのだ。ヨシムラは、モリワキ/ヨシムラのライダーからGPライダーへと成長したヘロンスズキのグレーム・クロスビーを起用した。相棒はAMAのエース、クーリー。最強の布陣だ。マシンはGS1000Rで、前年からスズキ製の耐久専用フレームになっていた。
「最初のプロトに乗ったとき、これは素性のいいバイクだと思いましたよ。乗りやすい。レーサーなのに低中速があって、ハンドリングもニュートラル。今でもこれを街乗り用にしたいぐらい。究極の2本サス」
自らもテストした浅川さんは、充分な手応えを感じていた。ヨシムラのテストライダーは1978年以来、故加藤昇平さんと昇平さんの弟子である浅川さん。ふたりとも速く、メカニックでもあるから適任だった。

1980年ヨシムラ・スズキGS1000Rは、歴代のヨシムラマシンの中でもひときわワークスマシン色が強く、風格を感じる1台だ。ヨシムラとスズキの結びつきはGS750で始まり、GSの生みの親であるスズキの横内悦夫氏とオヤジさんの固い友情と技術者同士の信頼関係が土台となった。
1980年当時、スズキはGPでヤマハのケニー・ロバーツを倒すため、RG500の軽量・コンパクト化と数々の新機構の開発に熱心だった。そのよい影響がこのGS1000Rの車体にも及んでいる。エンジンも“ドリルホールのヨシムラ”といわれるほど徹底した軽量化が行われ、チタン部品や肉抜き加工または中空のボルトも多数使われた。
当時はチタン製品が希少だったので、スズキへ行く度に、ポケットをチタンのボルトで膨ませて帰ってくるヨシムラ・メカもいて、そのお土産をオヤジさんは喜んだという。

