協力:バイカーズステーション(遊風社)
▶▶▶写真はこちら|ヨシムラ「GS1000R XR69」(1980)
ヨシムラの夏は、このころも今も、いつだって熱く、あわただしくギリギリだ。そして1980年。レースの10日前に浅川さんはトラックで浜松のスズキ本社に向かっていた。それもレンタルした幌もない平積みトラックで。
「組み上がったエンジンを積んでね。スズキでフレームに乗せて組み上げなきゃいけなかったから」
マシンは2台。クーリー/クロスビー組と、リチャード・シュラクター/マイク・コール組に乗せるのだ。エンジンはスペアを含めて計4基あり、それをスズキで浅川さんたちがシャシーに合体させる。組み上がったマシンをレンタルトラックに積んで鈴鹿に向かったのは、レースウィークに入ってからだった。
荷台にはGS1000Rが2台とエンジン単体が2基。その上には、トラック運送に使うシート(浅川さんが実家の運送屋から持ってきた)がかけてあるだけ。8耐で優勝を狙うワークスマシンとしては、なんともかわいそうな運ばれ方だ。まあ、それもヨシムラらしい。
レースはカワサキのハンスフォード/エディ組とのデッドヒートとなった。耐久はライダーのウデだけの勝負ではない。オヤジさんがよく口にするチーム一丸、家族総出の総力戦だ。そして130周目。クロスビーが予定どおりのピットイン。ここで波瀾が起こった。
「ブレーキがスポンジ―だ。パッドを替えてくれ!」
えっ。だれもがギョッとした。もつはずのパッド。でも、ライダーがそう言うのだ。浅川さんは交換し始める。外しやすいようにはしてあるけれど、予定外だったから焦った。手はチンチンに熱いディスクで火傷。新品のパッドを入れようにも、ピストンを押し戻す専用工具を用意していない。ドライバーでこじる。
「“何でパッドを替えるんだ! いい加減にしろ!”ってオヤジさんが怒鳴ってる。そう言われたってライダーがダメって言うし、パッドも外しちゃったから」
このピットストップで合計2分以上をロス、そのためにカワサキに抜かれてトップの座を奪われた。
「そのピットインの後、チームのだれも口きいてくれないわけ。オレも目を合わせられない。みんな、“抜かれたのはオマエのせいだ”って感じでね」
レースは、それでもクロスビーのガンバリなどで優勝できた。だから、浅川さんは、うれしさよりホッとしたのだ。これでパッド交換事件は帳消しになる。
けれど、事件はレース後も続いていた。まず冒頭に書いたリヤタイヤのパンクだ。たぶん、あと数ラップしていたら……という状況だった。そして、エンジンを開けてビックリ。クラッチハウジングを外そうとしたら、ローラーベアリングがボロボロと落ちてきた。クラッチセンターにあるオイルポンプを回すギヤのところに付いていたやつだ。このベアリングが壊れるとポンプが回らなくなり、オイル切れで当然焼き付く。
原因は、ベアリングの外に被せる大きなカラーを逆さに組んだためだった。ベアリングは少し出っ張っていて、カラーにはその分の逃げがある。ところがこれを逆さに組んだものだからベアリングは必要以上に押され、最終的に壊れてしまったのだ。
犯人はオヤジさんだった。だけど浅川さんたちメカニックは何も言わなかった。言えるはずもない。オヤジさんは、原因を知ってムッとしていた。
さらに例のパッドだ。交換しなくてもギリギリで最後までもったかもしれない、ということがわかった。ところが、そうすると今度はマスターシリンダー側のリザーバータンクの容量不足から、フルードにエアが混入したであろうことが判明した。またパッドを交換しなかったら、本当にあんなペースで走れたのだろうか。
「それは何ともいえない。危なかったのは確か。でも、次の年からパッド交換時にキャリパーのピストンを押し戻す専用工具を作って用意しましたよ」
レースとは、そんなものなのだ。1980年、勝利の女神は、ゴッドハンドの異名を持つオヤジさんと、ヨシムラで働く不眠不休の若者たちに、少し優しかった。

1995年の初夏、元ヨシムラの浅川邦夫さん(アサカワスピード)の手で見事に再生され、G.クロスビーの手によって鈴鹿を駆け抜けたヨシムラ・スズキGS1000Rを筑波サーキットで試乗した時の写真。タイヤは、前後ともダンロップK591エリートSPで、サイズはF:110/80B18、R:140/70B18、日本にはないアメリカ製を装着している。
