昭和20年代、静岡の地でカタログを夢中で眺めていた少年は、やがてホンダのデザイナーとして時代を築く存在となる。画用紙の上で育まれた想像力、そして「ミニマムこそ進化」と語る美学。その原点には、貧しくも豊かな空想の時間と、本田宗一郎との熱い邂逅があった。40年のデザイナー人生を振り返りながら、佐藤さんは静かに語る――“すべては巡り合わせだった”と。
まとめ:オートバイ編集部/協力:東京エディターズ
画像1: 〈インタビュー〉ミニマムに宿る美学が生んだヨンフォア|ホンダデザイナー・佐藤充弥氏が振り返る40年【空冷4発ヨンヒャク回顧録】

佐藤充弥氏(さとうまさひろ)

美術教師だった父の影響と、幼少期から培われた「ものづくり」への情熱を胸に、東京藝術大学を経て昭和37年にホンダに入社。ホンダの製品デザインに40年近く関わり、特に伝説的なバイク「CB400FOUR(ヨンフォア)」の生みの親として知られるホンダのデザイナー。

ホンダ「CB400FOUR」デザイナー・佐藤充弥氏インタビュー

──デザイナーというお仕事を志したきっかけは?

「とくにはないけどね。まあ、親父が半分絵かきみたいな学校の先生をしてましたから、小さい頃から素養は培われたのかもしれません」

──美術の先生ですか?

「そうです。僕は本当は工学部に入りたかったんだけど、実力が足りなかった。東京工大を受けようと思ったこともあったけど、やっぱりデザインの仕事もいいかなと思ってね」

──10代の頃から、ものを作ったり絵を描いたりしていたんですか?

「ええ、それはやっぱりね。図画工作が得意でね。ただ、困ったことに写生大会では落選するんです。『親に描いてもらった』とか『上手すぎる』とか(笑)」

──バイクは佐藤少年にどれくらいのインパクトを与えたのでしょう?

「強烈なイメージですね。小学校、中学校のころに集めたクルマやオートバイのカタログは、いまでもたくさんありますよ」

──大変なバイク少年だった?

「いや、どちらかといえば実際に乗るというより、写真や資料を収集して楽しむ“カタログ少年”だったんですよ」

──コレクター的な?

「いや、ただ集めるだけ。お金がなかったからね。今の人はすぐ買えるけど、当時は買えなかった。だからカタログを眺めて空想し、楽しんでいました。だからこそ、知識が先に立ったんです」

──免許はいつ頃取得されたんですか?

「16歳、高一のとき。ちょうどホンダがチャンネルフレームのバイクを出していたころですね。でも僕にはキャブトンとメグロが目立って見えました」

画像: メグロK2(1962年)

メグロK2(1962年)

──お生まれの静岡は、バイク産業が盛んな土地ですよね。当時ホンダは?

「当時はまだ新顔のメーカーでしたよ。大きいところではキャブトン、メグロ、トーハツなんかがありました。忘れじのヒーローたちだけど、新興メーカーに全部やられちゃったよね。昔ながらのイギリス的な古いバイクを作っていたから、時代に乗り遅れたと思いますよ。戦前なんて、大型バイクは医者とか弁護士とか、お金持ちしか乗れなかったんです」

──免許を取っても、実際にはバイクに乗れなかった?

「カタログによる机上運転でした(笑)。あとは親戚のポインターとか、友人宅のシルバーピジョンとかね。タミヤ模型の社長・俊作さんの弟が同級生で、彼の家が貸しスクーター屋をやっていて、よく借りましたよ」

──いい時代ですね。

「タダで貸してもらったりしてね。ちょこちょこ乗って楽しんでました。貧しい時代でしたが、いい時代でもありました」

──でも、憧れのモデルに対して、かえって想像力が膨らんだのでは?

「そうだね。免許を取っても乗れなかった時の方が、想像力がたくましかった。イメージが澄みきって浮かび上がるような感じでした」

──高校卒業後は東京芸大へ

「大変でしたよ。私立の美術学校へ行こうと思ったけど、お金がかかるし、うちは貧しかった。最初の年だけ仕送りしてもらって、あとは全部アルバイトで自力卒業です」

──孝行息子ですね。

「キヤノンに芸大の先輩がいて、パーツリストを作るアルバイトを4年間続けました。1台カメラを分解してパーツリストを描くと5万円くらいもらえたんです。カメラも好きだったし、いいバイトでしたよ。それで旅行したり、親に仕送りしたり、カメラも買いました。当時の金でそれくらい、いまなら50万円以上かな」

──やっぱり描けることが重要なんですね。

「そう。図面を立体的に描く力、メカニズムの理解、それがないと描けません。とても勉強になりましたね。ホンダだけじゃなく、サンライトというバイクのパーツリストもやりました」

──当時は学生にもそういう仕事の道が?

「そうなんです。ホンダのパーツリストを作っていた人たちの中には僕の後輩が多い。アルバイトがそのまま仕事になってしまうんですよ」

昭和20年代の静岡県は、まさに二輪産業の勃興と坩堝。その地に育った絵好きの少年が、バイクをモチーフに夢を膨らませたのはごく自然な流れだった。まだ何もなかった時代。乗れなかったからこそ、想像が肥え、空想が広がった。夢に描いた「これからの乗り物の楽しげな未来」に、彼の心は一層鮮やかに触れていたに違いない。

走りを極めた末に辿り着いた純粋な“動”の造形

画像2: 〈インタビュー〉ミニマムに宿る美学が生んだヨンフォア|ホンダデザイナー・佐藤充弥氏が振り返る40年【空冷4発ヨンヒャク回顧録】

最初に描いたイメージスケッチでは、当時のGPレーサーをモチーフにしたスポーティな雰囲気を強調している。タンクの上には、レーサーマシンのストラップを思わせるベルトが装着され、機能性とデザイン性を両立。

さらにマフラーは2本出しとされ、リアビューに迫力を与える構成となっている。全体のプロポーションは軽快さと力強さを兼ね備え、走りのイメージを直感的に伝える仕上がりだ。


画像3: 〈インタビュー〉ミニマムに宿る美学が生んだヨンフォア|ホンダデザイナー・佐藤充弥氏が振り返る40年【空冷4発ヨンヒャク回顧録】

より「動」のイメージを強調したシングルシート仕様も併せて検討された。この仕様では、ライダーが路面との一体感を得られるように、コンパクトかつスポーティなシート形状を追求。リアカウルもシェイプアップされており、GPレーサーらしい軽快な後ろ姿を演出している。

また、シングルシートによって実現する軽量化や乗り味のシャープさも考慮され、走行シーンでのダイナミズムが最大限に表現できるデザインとなった。


画像4: 〈インタビュー〉ミニマムに宿る美学が生んだヨンフォア|ホンダデザイナー・佐藤充弥氏が振り返る40年【空冷4発ヨンヒャク回顧録】

ほぼ最終段階と言えるスケッチでは、細部まで徹底した検討が行われている様子が見て取れる。前後のフェンダーには軽量かつ耐久性に優れた樹脂製パーツが採用される案が盛り込まれ、スポーティさと実用性の両立を目指している。

タンクにはロングタイプデザインが採用され、長距離走行時の快適性や操作性の向上を意識した設計となっている。ギリギリまで複数の仕様やアイデアが検証され続けたことが伝わってくる。


画像5: 〈インタビュー〉ミニマムに宿る美学が生んだヨンフォア|ホンダデザイナー・佐藤充弥氏が振り返る40年【空冷4発ヨンヒャク回顧録】

フェアリング付き仕様についても、バリエーションの一つとして積極的に検討された。この仕様では、空力性能と高速安定性を重視し、レーサーらしいシャープなデザインのフルカウルを採用。シングルシート化により、ライダーの身体がマシンと一体になるイメージがさらに強調されている。

ステップ位置も従来より大きく後退させており、レーシングポジションを意識したアグレッシブなライディングスタイルを実現。

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