文:齋藤春子/写真:井上 演
KADOYA 東京本店

東京都台東区西浅草3-29-21
営業時間:午前11時〜午後7時
定休日:毎週水曜日(夏季・年末年始休業あり)
1935年、創業者の深野正次郎氏が東京・浅草にカドヤ皮服店を開業したことから始まった老舗レザーウエアメーカー。1965年に深野正孝氏が代表に就任した頃からライディングウエアとしての知名度が大幅に高まり、バトルスーツをはじめ多数のロングセラーモデルを生む。
2006年に革専門クリーニングサービス「Ref Leather」をスタート。2012年に深野将和氏が代表に就任。現在は東京本店に加え、仙台、大阪、名古屋、福岡に直営店を構える。
株式会社カドヤ 代表取締役社長
深野将和さん

1974年生まれ。幼い頃からバイクと革に囲まれて育つ。初めてのバイクの記憶は小学生の時に乗ったモトコンポ。現在も、つくばサーキットで開催される「テイスト・オブ・ツクバ」に1988年式のGSX-R750で参戦するなど、レース活動にも熱心に取り組んでいる。
「ステッチの色や金具の色ひとつ変わっても革ジャンの表情は変わる。使い込むほどに愛着の湧く革は、絶対に手放せない不思議な魅力があります」と語る、根っからのレザー好きでもある。

江戸時代からの繁華街、浅草の地で積み重ねた歴史
──創業90周年、おめでとうございます。1935年の創業以来、カドヤさんは一貫してレザーウエアを手掛けられてきました。ライダーにも「カドヤ=革ジャン」というイメージが浸透していますが、これだけ長きに渡り、ライダーの厚い支持を集めてきた理由を、深野さんご自身はどのように分析されていますか?
「本当にありがたい限りですね。そして思うのは、やはり創業者である祖父の深野正次郎と、先代である父の深野正孝が作り上げたものがとても大きかったということです。私が3代目として社長を引き継いだのは2012年ですが、3代に渡って東京・浅草の地で商売ができているというのも、あらためて考えるとすごいことだなと感じることがあります」
──確かに、下町「浅草」のブランドというイメージがあります。
「浅草の国際通りから吉原への入口に向かって1つ目の角にある、20坪に満たない店が発祥の地ですが、タクシーの運転手さんに聞けばすぐわかるような、かなり良い立地だったんですよ。カドヤの由来は“道の角にある店だからカドヤ”という単純なもの(笑)。国際通りはもともと、通り沿いに浅草国際劇場という人気の劇場があったことにちなみ名付けられたそうですが、今も昔もにぎわっている通りですし、劇場が近いので、昔から芸能関係のお客さんも多かったと聞きます」

▲鋭角な角にあった店舗の立地にちなみ「カドヤ」の名がつけられた。
──創業時はどのような業態でしたか?
「もとは古着屋でして、革製品の修理や染め替え、革の仕立て服などを手掛けていました。親父に聞いた話だと、もともと、その一帯は古着屋が多かったそうです。昔はそれこそ着るものを売って吉原に行ったり、逆に、身なりをめかしこんで吉原に行く人もいましたから、そこから買取もすれば、販売もする古着屋さんが増えていったらしくて。そうそう、余談になりますが、昔はもうひとつのカドヤがあったんですよ。“紳士服カドヤ”という店舗があって、そこは親族が始めたお店でした。今でも同じ場所で、“中華カド”というお店を親族の子供達がやっています。衣類を扱うのが得意だった祖父は、戦前から他にもいろいろな商売をやっていたようですが、カドヤが本格的に革ジャンパーを作るようになった昭和30年代までだけでもなかなか面白い歴史があって、それもやはり浅草という場所柄があったのでしょうね」
──ライダーのお客さんが増えたのはいつ頃からなのでしょうか?
「戦後は進駐軍の米軍払い下げの服を仕立て直したりしていたそうですが、昭和20年代後半辺りから、バイク好きの間で“浅草に革に強い店があるらしいよ”という話が徐々に広まっていきました。もともと浅草って、革の町なんですよ。革の問屋さんがあれば、靴屋さんもある。蔵前方面には美錠(バックル)屋さんがあるし、日暮里の方には裏地屋さんがいっぱいという感じで、ものづくりの町で創業した地の利もあったと思います。それから昭和30年代に入って、日本が高度経済成長期を迎えていく中で、バイクチームのお客さんから革の注文服のオーダーが入るようになったりしたそうです」
──そこから、バイク用ウエアが主軸になったのはいつ頃だったのですか?
「うちが結構変わってたのは、革ジャンはバイク用だけではなくて、街着でも着れるものを作っていたんですよね。昭和30年代から40年代にかけてはオーダーメイドの注文服を作っていましたが、粋なお客さんから革の角袖(和装コート)のオーダーがあったり、バイクに乗らない方に向けた皮革服もよく作っていたようです。それが昭和40年代になるとバイクの販売台数がどんどん伸び、バイク乗りの数も増えていったので、必然的にバイク用ウエアも増えていった感じですね」

▲昭和30年代、革製の注文服の仕立ての良さが評判となり、バイクチームからオーダーメイドの革ジャンパーの注文が入るように。
──国産車がどんどん売れていった時期と同じくして、カドヤさんの革ジャンもライダーに浸透していったわけですね。
「昭和30年代後半には、ワンピースのツナギを作ったりするお客さんもいらっしゃったそうなので、そこからだんだんですよね。バイク人気が高まっていくのにつれて、革ジャンだけではなく、ブーツとかグローブなどバイク用ギアも手掛けるようになりました。それに昭和50年頃は、通信販売も多かったようです。自分は昭和49年(1974年)生まれなのですが、発送の様子を子供ながらに覚えています。当時は“国鉄小荷物”という、現在のJRが国鉄時代にやっていた小荷物輸送サービスがあって、発送する荷物を小荷物取り扱い駅まで持っていくんですね。自分は鉄道好きだったので、“今日は南千住駅に行けて嬉しいな”という感覚で、よく見に行っていましたね」
──深野さんご自身のお話もお聞きしたいのですが、子供の頃は、家業についてどのように感じていましたか?
「自分が生まれた当時のお店は、今の本社ビルのような立派な建物じゃなくて、自宅も兼ねた2階建ての店舗だったんです。そこで祖父が裁断して、親父がパターンを引いたり販売をしてて、さらに職人さん達がいて…という感じで、小さい頃から、カドヤの商売が生活の中にあるのが当たり前でしたね」

▲寸法の計り方について説明書きなどが1970年代のオーダーシート。絵が上手な2代目・正孝氏のイラストも資料として残っている。
──では子供の頃から、3代目として会社を継いで当然の自覚がありましたか?
「うちは姉、自分、妹という3人姉弟なので、周りからも最初から跡継ぎ扱いされがちだったんですけど、我ながら、ちょっと変わった子供だったんです(笑)。うちの親父も突拍子もないタイプでしたけど、自分も一筋縄ではいかなくて、子供の頃は電車の運転手になりたかったんですよ。一方で自転車も大好きで、ひたすらママチャリで雪の中でもなんでも走り回って、よく怪我したりしてました」
反骨精神に満ちた10代をなだめてくれた意外な人物
──そんな幼少期を経て、いつ頃家業への気持ちに変化があったのでしょうか。
「商売の規模が大きくなり、2階建ての店舗が5階建てのビルに変わっても、家族の住居と工場、お店がひとつの建物の中で完結してたのは変わらなくて。それこそ革を叩く音やミシンの音を聞いて育ちましたし、自分の大好きな絵本が、いつしか型紙として切り刻まれることも何度となくありました(笑)。昔の子供の絵本って厚紙だったじゃないですか。あれが本当に型紙に向いていたんですよね。忙しい両親は子供の面倒を見るどころじゃなくて、家族でどこかに行った記憶は数少ないです。でも同時に、英才教育のように目の前で職人さん達が革を扱う姿を眺めながら、カドヤの商売がどんどん広がっていく様子を見ていた記憶は、今でも自分のベースになっていますね」
──実際にカドヤに入社されたのは、いつ頃だったのですか?
「それも紆余曲折で、じつはカドヤを2度やめてるんです。最初は17歳の頃に工場に入って、裁断をメインにパターンとかも教えてもらいました。革ツナギやバトルスーツ(※1987年に発売。全身14箇所に革巻硬質プロテクターを装備し、最強のバイク用防護服として大人気となった)の裁断をして、そこで革の良し悪しなんかも学ばせてもらったのですが、まだ10代だったので、反骨精神がすごかったんですよ。今でこそ親父のことはすごく尊敬していますし、到底真似できないなと思うところも多々あるのですけど、当時は考え方の違いもあったし、親父もカドヤを大きくした人ですから絶対的な信念があって、ともかく反りが合わない。もう親父の目の届かないところに行くしかないと、家を飛び出ちゃったんです。本当にこのまま一生の別れになるんじゃないかって勢いだったんですけど、そこで親父との間を取り持ってくれたのが、バトルスーツのプロデュースをした佐藤信哉さんだったんですよ。『気持ちはわかるけど、仕事はちゃんとしなきゃまずいだろ』と諭されて、着の身着のまま家を飛び出したものだから、洋服を買ってもらったことを覚えています」
──そんなエピソードがあったとは……。
「本当に、カドヤに携わった大勢の皆さんのおかげで今の自分があります。ただ今度は営業で会社に戻ったのですけど、2、3年ほどして、どうしてもミニバイクレースを本気でやりたくなって退社したんです。浅草にいたら駐車場とかも高いですし、違う仕事に就かないと無理だと思ったんですよ。それで千葉に引っ越して運送業に就いたんですけど、運送業もかなり忙しい仕事で、結局は仕事メインの生活になって全然レースができませんでした。それで25歳の時にもう一度カドヤに戻ってきまして、現在に至ります」
