文:齋藤春子/写真:松川 忍/協力:アライヘルメット
株式会社アライヘルメット

本社・工場
埼玉県さいたま市大宮区東町2-12
本社工場内に残る新井ヘルメット設立当時の会社ロゴ。ブランド名は先代社長の新井広武氏の頭文字から取った「HA」だった。
1950年に設立。その始まりは明治35年に理夫代表の祖父である新井唯一郎氏が設立した新井帽子店に遡る。昭和12年に先代・新井広武氏が保護帽の製造を開始し、日本初のヘルメットメーカーが誕生。昭和25年に現組織の母体である株式会社新井広武商店を設立。昭和51年に株式会社新井ヘルメットを設立し、昭和61年に社名をアライヘルメットに変更。2019年にはライダー用装具メーカーで初のFIMゴールドメダルを授与された。
株式会社アライヘルメット 代表取締役
新井理夫さん

1938年東京・京橋生まれ。慶応義塾大学を卒業後、インディアナ工科大学に留学。1970年代から父・新井広武氏が設立したアライヘルメット(当時は新井広武商店)の経営に携わり、1986年にヘルメット事業を完全継承。アライヘルメットの社員はほぼ全員がバイク好きであり、実際のライダーだからこそわかる快適性や被り心地の良さにもこだわりを発揮しているが、新井代表も現役のライダーであり現在の愛車はホンダNC750XとXR250。ヘルメットは常に白を愛用。
日本のヘルメット産業はアライから始まった
──今年10月に創立75周年を迎えられたとのこと、おめでとうございます。
「日本で最初にバイク用のヘルメットを作ったのは私の親父なのですが、それは商売のためじゃなく、自分の頭を守るためだったんです。自分用にFRPのヘルメットを作って走っていたら、その姿が『変なものを被ってる人がいる』って噂になってね。それを聞いた川口オートレースのオーガナイザーが訪ねてきて、『オートレーサー用のヘルメットを作ってくれないか』と依頼されたのが商売としての始まりでした。とにかくバイク好きの親父でね、私もバイクに乗る親父の姿を見て育ったんですよ」

▲本社の来客スペースに展示されているフラッグには、アライヘルメットを使用するライダー&ドライバーのサインがびっしり。
──そうなると、やはり幼い頃から将来は家業を継ぐことは意識されていましたか?
「親父の姿を見ていたので、ものを作るのは好きでした。おふくろの勧めで中学から慶応に通っていて、大学は工学部に進んだんですけど、ずっとバイクに乗りっぱなしで勉強なんかあんまりしないまま卒業しちゃってね(笑)。その姿を見たおふくろが今度は『このままじゃどうしようもないから、アメリカに留学しなさい』と言って、インディアナ工科大学の3年に編入することになったんです。というのも、私の姉がインディアナ州に渡って医者になっていたんですよ。それで1960年代初頭に留学して、とにかく勉強させられましたね。なにしろ入学時には2000人近くいた学生が、3カ月の学期ごとにどんどん落とされて、卒業できるのは100人に満たないんです。そこで生まれて初めてちゃんと勉強しましたが、学校始まって以来の優秀な成績を取っちゃって、自分が意外に優秀なんだなって気がつきました(笑)。就職も20以上の企業からオファーをもらったものの、向こうで就職する気はなくて、卒業前にはもう日本に帰ることを決めていましたね」
──帰国後はすぐに、ヘルメットづくりの修行を始めたのでしょうか。
「いえ、『何かデッカイことをやりたい』と思って、レースで身を立てようと考えていたんです。当時は日本にそこまで大きな二輪のレースがなかったので、スポーツカーも好きだし、四輪ドライバーになろうと思ってね。それで日産のレーサーのオーディションを受けたら、これが受かったんですよ。そこからセミワークスドライバーのような契約で走ることになったのですが、いざレースの世界に入ると、生まれついての才能が桁違いの人間がいることを思い知らされました。私も素人と比較したら速いかもしれないけど、本当に世界に出ていく人間の才能は全然違う。結局数年で、この世界では超一流になれないなと思ってやめました。その後、なかば仕方なくヘルメットづくりに携わるようになり、親父の後を継いだので、最初から真面目に『これが一生の仕事だ』と思っていたわけじゃない。でもやはり仕事として取り組み始めたら、負けず嫌いの競争意識が出てくるんです。次第に『ヘルメット屋として世界で有名になってやる』と思うようになりました」

▲アライへの感謝の言葉が綴られた二輪&四輪ヘルメットが並ぶ中に、モータースポーツ好きで知られる三笠宮家の瑶子女王殿下のサインも。
