1954年の創業よりヨシムラの歴史は、レースと共にあると言っても過言ではない。本企画では、そんなレーシングカンパニーが作り上げてきた百戦錬磨のマシンの中から代表的なものをピックアップ。vol.1では、1980年に登場した「GS1000R XR69」を解説しよう。
まとめ:オートバイ編集部/協力:RIDE編集部
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ヨシムラ「GS1000R XR69」(1980年)解説

画像: YOSHIMURA GS1000R XR69 1980年

YOSHIMURA
GS1000R XR69
1980年

情熱と奇跡が生んだ鈴鹿8時間耐久レース優勝

1980年のヨシムラ・スズキGS1000Rは、歴代のヨシムラマシンの中でもひときわワークスマシン色が強く、現在でもその風格を感じさせる1台。ヨシムラとスズキの結びつきはGS750で始まり、GSの生みの親であるスズキの横内悦夫氏とヨシムラ創設者である吉村秀雄氏、オヤジさんの固い友情と技術者同士の信頼関係が土台となっていた。

当時、スズキはGPでヤマハのケニー・ロバーツを倒すため、RG500の軽量・コンパクト化と数々の新機構の開発に熱心だった。その成果はこのGS1000Rの車体にも及んでいる。エンジンも“ドリルホールのヨシムラ”といわれるほど徹底した軽量化が施され、チタン製の部品や肉抜き加工、中空のボルトも多数使われていた。

当時はチタン製品が希少だったため、スズキへ出向いたたびに、ポケットをチタンのボルトで膨ませて帰ってくるヨシムラのメカニックもおり、そのお土産をオヤジさんは喜んでいたという。

1980年3月、ヨシムラはデイトナ・スーパーバイクでクロスビーが優勝と幸先よくシーズンをスタートしていた。しかし、この優勝もヒヤヒヤものだった。というのも、GS1000の純正クランクは組み立て式で、これがことごとく壊れたのだ。

前年からこの問題に悩まされていたヨシムラは、デイトナに吉村不二雄氏が3本だけ自作した対策クランクを持ち込んでいた。これは、クランクの圧入部を溶接し、バランスよりも強度を優先したものだった。

しかし、このクランクに組み直したのは、デイトナ入りしてからの予選前だったので、ギリギリの作業となっていた。こうして対策されたGSのエンジンを、耐久用にスズキが製作したフレームに搭載。スズキがGSで得たRG系の車体のノウハウと、ヨシムラがGS系をチューンし始めて4シーズン目というお互いの経験が、高いレベルで構築された素性のいいマシンが出来上がった。

そして1980年7月27日、ウェス・クーリーとグレーム・クロスビーが乗り、ヨシムラは1978年に続く二度目の鈴鹿8耐制覇を成し遂げた。表彰台に上ってしまった監督は、後にも先にもオヤジさんぐらいなものだった。観客からはライダー以上に大きな声援を送られていた。

オヤジさんが残した大いなる遺産

ヨシムラを象徴する赤と黒のツートーンが初めて採用されたのは、この年が初めてだった。メカニックの浅川氏が、デイトナに出場している他のバイクを見て「これがカッコイイ」と自ら塗ったもの。スポンサーがあったワケでもなく、コーポレートカラーというわけでもない。

前年は赤と白で、前年の1978年は赤一色。スズキの横内悦夫氏には「黒は不吉だ」と不評だったが、勝ってしまえばよく見えるもので、以後、この赤/黒はヨシムラのコーポレートカラーとなっていった。

画像: ヨシムラ「GS1000R XR69」(1980年)解説

ヘッドライトとゼッケンの位置は、現在とは左右逆。この位置関係は1986年まで続いた。また、ヨシムラの“指定ゼッケン”である#12をつけたのも、この年が初めて。ヨシムラのエースは1981年に#8、1985年に#15となった以外は、その後はすべて#12をつけていた。

フレームは、スズキがRGでのノウハウを活かして耐久用に設計したダブルクレードル。とてもいいフレームだったが、やや重かった。ダイマグ製ホイールは前後18インチでフロント2.50、リア4.00サイズ。タイヤはダンロップ(バイアス)で、フロント3.25/4.50-18、リア4.00/6.00-18を履いていた。

まとめ:オートバイ編集部/協力:RIDE編集部

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