1980~90年代は、サーキットでのラップタイムやレースでの勝敗が市販車販売に直結した時代。各メーカーは熾烈な開発競争を展開していた。その最前線、スズキの“ワークス的存在”だったヨシムラで手腕を発揮したメカニックの一人が竹中さんだ。
文:横田和彦/まとめ:オートバイ編集部
画像: 竹中 治 ブライトロジック 神奈川県厚木市山際780-1

竹中 治 

ブライトロジック
神奈川県厚木市山際780-1

1961年生まれ、静岡県出身。大学在学中にヨシムラでのアルバイトを経験し、1983年に入社。

全日本選手権や鈴鹿8耐、AMAなど国内外の舞台で腕を磨いた。その成果である車体製作の確かな技術と緻密なセッティング力が、ブランドの核となっている。トップカテゴリーのレーサーからストリート向けカスタムまで幅広く手がけ、多くのライダーから支持を集めている。

竹中さんが主宰するブライトロジックには、今でも1980~90年代スズキ車オーナーからのカスタム依頼が絶えない。それらは現代的に進化し、当時を超えるクオリティを誇っている。

アルバイトから始めたが、すぐに責任ある仕事を任される

──竹中さんはヨシムラ初期のレース活動を支えたと伺っていますが、在籍はいつからですか?

「ヨシムラに在籍していたのは1981年から1994年までですね。大学生のときにアルバイトで入り、朝から晩までカム研磨をしていました。時給はけっこう良かったですよ。でも翌年には別の仕事もやらせてもらいました。1982年の鈴鹿8耐用レーサーや、ピンクと白のテスタロッサ1000R(伊太利屋SPORTヨシムラR&D)の電装関係は僕が担当しました。名目上はアルバイトでしたが、実際は普通のメカニックの一員でしたね。
あの頃はまだヨシムラに車両運搬用トラックがなく、運送会社のトラックをチャーターしたんです。でも運転手が『鈴鹿サーキットがわからない』と言うので同乗したら、到着直前に居眠りし始めて、サーキットホテル前のカーブで縁石にザーッとタイヤをこすって。本当に焦りました」

画像: ▲ヨシムラでアルバイトを始めた頃、カムシャフトを研磨している場面。仕事漬けで大学の単位が取れず中退、そのまま正式にヨシムラへ就職した。

▲ヨシムラでアルバイトを始めた頃、カムシャフトを研磨している場面。仕事漬けで大学の単位が取れず中退、そのまま正式にヨシムラへ就職した。

──台風で大雨、6時間に短縮されたレースでしたが、現場は?

「とにかく雨がすごかった。最終コーナーを立ち上がったアルダナが転倒して、川のようになったストレートをシャーッと滑っていく光景は忘れられませんね。ヤバいと思ったけど、彼はマシンを起こしてそのまま走り続けた。結果的に転倒しながらも6位に入賞しました(編集部注:GSX1100Sのエンジンをスズキワークスフレームに搭載したテスタロッサ1000Rを、ウェス・クーリーとデビット・アルダナがライディング)。当時の8耐はたいてい夜遅くまでモリワキさんの工場を借り、折れたり取れたりした部品を溶接修理していました。そこで先輩メカからフレーム作業を学んだことが、今の車体補強などにつながっています」

──ヨシムラは独自で車体開発をしていなかったのですか?

「オヤジさん(ポップ吉村)は基本的にエンジン一筋で、車体は浅川さんや僕らが担当でした。モリワキは早くからアルミフレームを作っていましたが、ヨシムラのオリジナルフレームは1984年に浅川さんが作ったものだけ。それもモリワキを参考に治具の作り方を学んで製作したものでした。その後1984年以降はスズキからワークスフレームが供給され、景気も良く新型が次々支給されました。TT-F1ではメインとTカーで4台、F3でも3~4台作り、レースに挑んでいました。仕事量は凄まじかったですが、スタッフが皆若くて勢いがあったからできたことですね」

画像: ▲左はGS450(並列2気筒)ベースのレーサーにまたがる竹中さん。バイクに乗るのも大好きで、後に筑波サーキットでTT-F1マシンをテスト走行したこともある。右のGSX1100Sは同僚の愛車。

▲左はGS450(並列2気筒)ベースのレーサーにまたがる竹中さん。バイクに乗るのも大好きで、後に筑波サーキットでTT-F1マシンをテスト走行したこともある。右のGSX1100Sは同僚の愛車。

──ポップさんとの関わりは?

「オヤジさんはエンジンダイナモ室に籠ることが多く、車体関係にはノータッチでした。顔を合わせると『おっ竹中、送ってくれ』と頼まれて家まで送ったことはよくあります。その際はハンドルやブレーキ操作を丁寧にして、助手席横のバーを握られないよう気を使いましたよ」

──仕事ぶりで印象に残ることは?

「エンジンチューニングへの探究心がすごかった。ラムエアの導入やキャブとエンジン間のヒートガード装着もオヤジさんの発案です。またメカニックが何かやることに関しても寛容で、ホンダがNSR500で同爆システムを導入したと聞けば、油冷4気筒エンジンで試す。油冷でカムギアトレイン、逆回転カムなどさまざまな挑戦をしました。マフラーでもエキパイを縦割り溶接したり、一斗缶のような膨張室を試したり、自由にやらせてくれました」

──新しいものに寛容な一方で頑固さもあった?

「当時のオヤジさんのエンジンは高回転域のピークパワー一点集中型で、日本人ライダーには扱いにくかったんです。全日本が始まり、中低速の特性も必要になったときも頑固にピーク重視を崩さなかった。そんな状況で、オヤジさんが入院中に浅川さんが内緒で4-2-1マフラーを作り、辻本さんのF1マシンに装着したら優勝。報告を聞いたオヤジさんは『それは良かった。でも俺も寝ながら考えたんだ』と言って披露したアイディアがデュプレックス。ピークを落とさずトルクをフラット化する画期的発想は、そこで生まれました」

──まさに技術革新の時代ですね。

「1993年にTT-F1が終了するまでは各メーカーが潤沢な開発費を投入。クイックシフターやスリッパークラッチなど、今では当たり前の技術もその頃にテストしていましたから。けれど1994年にスーパーバイク規則に変わったとき、時代の一区切りを感じて独立を決めました。でも本当に貴重で面白い時期にヨシムラでさまざまなことに関われた。辻やんとアメリカを大陸横断しながらレースしたり、オーストラリア遠征を経験したり。楽しかったし、本当にいい時代でしたね」

画像: ▲1986年、GSX-R400のF3レーサーと記念撮影。中央の帽子をかぶった背の高い男性が辻本さん、その右隣が竹中さん。手前の青い服の少年は現ヨシムラ社長の加藤陽平さん。

▲1986年、GSX-R400のF3レーサーと記念撮影。中央の帽子をかぶった背の高い男性が辻本さん、その右隣が竹中さん。手前の青い服の少年は現ヨシムラ社長の加藤陽平さん。

文:横田和彦/まとめ:オートバイ編集部

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