敗北と挫折を糧に反骨の炎を燃やし続けたヨシムラ。本企画では、71年にわたって受け継がれるブランドの精神を、そのレースシーンにおける輝かしい歴史を振り返るとともに紐解いてゆく。【前編】は、POP吉村が米国で挑んだデイトナの衝撃、GSとの運命の邂逅が黄金時代を切り拓いた1971年~1981年までを紹介する。
文:横田和彦/まとめ:オートバイ編集部/協力:Bikers Station

CB750 FourからZ1へ(1971~1977年)

画像: CB750 FourからZ1へ(1971~1977年)

世界初の二輪用集合管でアメリカを席捲

ヨシムラのレーシングヒストリーには、常に反骨精神があった。勝利よりも多くの失敗があり、そして常にアメリカと深く関わっていた。日本人からは「オヤジさん」、アメリカ人からは「POP」と呼ばれた吉村秀雄は、家族にとっても客の若者たちにとっても、まさに“火の玉オヤジ”そのものだった。

ヨシムラの歴史は大まかに区分できる。九州時代(1950〜60年代)、東京・福生/秋川時代(1960年代半ば〜1970年代初頭)、アメリカ・ロサンゼルス近郊シミバレー/ノースハリウッド時代(1970年代)、そして厚木時代(1980年代以降)である。マシンでいえば、英車やCB72/77、さらには四輪のS600/800、CB750、GS750/1000がPOPの時代を象徴し、4バルブのGSX/カタナは息子・不二雄への世代交代期を示す。そして空油冷GSX-R以降は、完全に不二雄の時代となった。

1971年デイトナ。前年には英雄ディック・マンがホンダ・ファクトリーのCB750フォアで200マイルを制しており、ヨシムラCB750と、そのチューナー・POPには大きな注目が集まっていた。マシンは基本的にRSC(レーシングサービスセンター)のキットを組み込み、さらにPOPお得意のハイカムとCRキャブを組み合わせた仕様。マフラーはまだ4本出しであった。ゲーリー・フィッシャー騎乗のヨシムラCB750は、スタートから10周目まで圧巻のスピードでトップを走行。しかし、そこまでだった。カムチェーン切れによりリタイアを喫してしまう。

このレースをめぐっては、その後POPが激怒することになる。リタイアの原因はSTDカムチェーンの強度不足だったが、実はRSCには対策用の強化チェーンがすでに存在した。しかしヨシムラにはその情報が伝わっておらず、RSCも知らせなかったのだ(理由は定かではない)。いずれにせよ、ヨシムラがアメリカの舞台に強烈な先制パンチを放ったことは間違いない。

そして同年10月、カリフォルニア州オンタリオで行われたレースで、ヨシムラはついにアメリカを完全にノックアウトする。フィッシャーのCB750には、得体の知れない黒々とした集合マフラー(POPが四輪での経験を二輪に応用して開発した“4into1”エキゾースト)が装着されていたのだ。

YOSHIMURA・KRAUSE
Honda CB750 RACER (1972年)

画像1: ヨシムラ・レーシングヒストリー(1971年~1981年)【前編】世界初の2輪集合管でアメリカを石鹸! GSと出会いデイトナ&8耐を制覇

1972年、ヨシムラは北米最大級のホンダディーラー「クラウス」と提携し、CB750を独自のハイカムや4-1集合管、ヘッド加工で強化した。デイトナ200マイルではゲイリー・フィッシャーとロジャー・リーマンが序盤からトップ争いを演じ、その速さと信頼性を示した。

CBは圧倒的に速く、低回転では重厚に唸り、高回転ではまるでレブリミットが存在しないかのように吹け上がる。そして独自の高周波サウンドは、今まで誰も耳にしたことのないものだった。観客はその音色とスピードに完全に魅了され、こうして集合エキゾーストは全米に「ヨシムラ」の名を轟かせることになった。だが、それは同時にコピー品の氾濫も招いた。POPは、この世紀の発明を特許申請しなかったのだ。

翌1972年、カワサキZ1が発売される。バラしてみると、それはS800以来と言えるほど、チューニングの素材として理想的なDOHCエンジンだった。素材の精度・強度はCBをはるかに凌駕していた。そしてヨシムラは1973年、本格的にアメリカへ進出する。すでに九州時代から「アメリカ進出」を思い描いていたPOPにとって、Z1の最大市場がアメリカだったことも大きな理由であった。

拠点をアメリカに移してからは、息子・不二雄の存在感が増していく。すでにPOPは50歳を超えており、若き不二雄がアメリカで、その後の4ストロークレースの方向性を決定づける重要な役割を担っていくことになる。

EGLI KAWASAKI(1976-1977年)

画像2: ヨシムラ・レーシングヒストリー(1971年~1981年)【前編】世界初の2輪集合管でアメリカを石鹸! GSと出会いデイトナ&8耐を制覇

加藤陽平社長の父である加藤昇平は、1970年代を代表する日本のロードレースライダーだった。EGLIカワサキやヨシムラZ1などの名車を駆り、多くのレースで活躍した。

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