文:横田和彦/まとめ:オートバイ編集部/協力:Bikers Station
Z1からGS750/1000へ(1977~1981年)

Z1(1977年)
AMA創設をサポート。初レースでヨシムラが1・2!
それが市販車改造によるスーパーバイク・プロダクションレースの出発点だった。発案者はスティーブ・マクラフィン。1988年から始まる世界選手権スーパーバイクも、彼の創設によるものだ。
ヨシムラは彼と共にレギュレーション作りに携わり、その中で「バイクファンやアフターマーケットのパーツサプライヤーに関心を持たせるレースであること」というスーパーバイク理念が生まれた。それは同時に、ヨシムラ自身が歩むべき方向性を示すものでもあった。
「いろいろ話し合ったよ。走る立場、造る立場、そしてパーツやバイクを買ってくれるお客さんのこと。それで、とにかくやってみようと燃えていたね。今振り返れば、ホントにメチャクチャだったよ」
1973年、AMAが主催する初のプロダクションレースがラグナセカで開催された。優勝はヨシムラがチューンしたZ1。そして見事、ワン・ツーフィニッシュを飾った。ライダーはイヴォン・デュハメルとマクラフィン。なおマクラフィン自身も優秀なレーシングライダーであった。
このレースは大反響を呼んだ。STDの外観を保ちながら、中身はフルチューンのモンスター!そのスタイルはマクラフィンと不二雄の狙いどおりに受け入れられた。大排気量4ストロークの戦いは、まさに「二輪版NASCAR」と呼ぶにふさわしい存在であった。それまでローカルで細々と開かれていた改造車レースは一気に広まり、とりわけ南カリフォルニアを中心に人気が爆発。1976年からはAMAナショナルシリーズが始まり、その主役はもちろんヨシムラZ1だった。

▲太平洋を越えて伝わったヨシムラの魂は、アメリカ人メカニックの心をも震わせ、彼らの手の中で熱きチューニングの炎となって燃え上がった。
一方で、チューンアップパーツも続々と登場する。もともと南カリフォルニア、特にロサンゼルス周辺にはホットロッド文化が根付いており、ストックカーで名を馳せたパーツメーカーが数多く存在していた。カムのウェブやアクション4、ケニー・ハーマン。ピストンならアリアスやベノリア。S&Wのショックも容易に入手でき、アクセルのコイルに至っては大型スーパーのKマートでさえ売られていたという。
「クルマで1時間も走れば全部そろった。パーツはあっち、ボーリングはこっち。そんな環境、日本じゃとても考えられなかったね」
優れたチューナーたちも集っていた。フレーム補強など車体加工を得意としたピエール・デ・ロッシュはZ1を駆り、ヘッドチューニングの名手ジェリー・ブランチ(ハーレーXRでも知られる)や、シリンダーワークに長けたC・R・アクステルもまたカリフォルニアにいた。

横内の技術と不二雄の改革が築いた黄金時代
しかしその間、ヨシムラはアメリカ人共同経営者との経営権を巡るトラブルにより、一度はすべてを失い、やむなく帰国することになった。その後、家族や支援者の助けを得て再びアメリカで会社を立ち上げ、「ヨシムラ」の名を取り戻した。工場火災でPOP自身が大火傷を負うなど、苦難の時期も続いた。
そして1976年夏、POPはスズキGS750の開発責任者・横内悦夫とロサンゼルスで出会う。ちょうど発売を目前に控えたGSにPOPが強い関心を寄せていたこともあり、両者の間でレース協力の話は瞬く間にまとまった。
「エンジンは吉村さん、車体は私。契約書なんてありませんよ。オヤジさんと私の、男の約束です」
横内が設計したGPレーサーRG500やモトクロッサーは、いずれも世界タイトルを獲得していた。彼の関与によって、ヨシムラはもちろん、スーパーバイクのサスペンションや車体技術は飛躍的な進歩を遂げることになる。

▲1977年のGS750改944、1978年のGS1000は、それぞれAMAスーパーバイクにおいてデビュー戦で勝利を挙げた。(写真はGS1000)
1977年、ラグナセカに登場したGS750改944には、GPマシンRGと同タイプの減衰力調整機構付きカヤバ製ガスショックがレイダウンマウントされており、鮮烈なデビューウインを飾った。
それまでのスーパーバイクは“悪夢のウォブルパレード”“ならず者の度胸試し”とまで言われるほど車体剛性が貧弱であった。そこにGSの骨格と、グランプリレベルのショックユニットが投入された意義は極めて大きかったのである。
当時のZ1フレームはキャスター角を寝かせる「インチキ」や、外から見えない補強をパイプ内に仕込む工夫が施されたが、市販S&W製ショックはプリロード調整しかできず、苦労の割に得られる結果は限られていた。
このため最高速ではZ1、コーナリングではドゥカティ750SS、BMW R90S、モト・グッツィといった構図が成立し、レースでは結局Z1が敗れるパターンが多かった。
しかし1978年、GS1000はデイトナで鮮烈なデビューウィンを果たし、鈴鹿8耐も制覇。ここにスズキとの「第1期黄金時代」が幕を開けた。

▲第1回 鈴鹿8時間耐久レース優勝(1978年)AMAスーパーバイクで鍛え上げられた空冷DOHC直4エンジンを搭載したGS1000で挑んだ鈴鹿8耐。ライダーはウェス・クーリー、グレーム・クロスビー、マイク・ボールドウィンという豪華な顔ぶれだった。

▲GS1000/SUZUKA 8H 1978年の鈴鹿8耐で優勝したGS1000は、AMA用スーパーバイクにビキニカウルを装着しただけのスプリント仕様だった。

▲GS1000R SUZUKA 8H 1980年の鈴鹿8耐ではグレーム・クロスビー/ウェス・クーリー組が参戦し、2位にわずか40秒差という僅差で勝利を収め、2度目の鈴鹿8耐制覇を果たした。

▲SUZUKA 8H(1981年) POP吉村の妻・直江さんとは戦時中に結婚し、創業当初から家族として、そして経営や現場の面でもヨシムラを支え続けてきた。
文:横田和彦/まとめ:オートバイ編集部/協力:Bikers Station