文:斎藤春子/写真:南 孝幸/まとめ:オートバイ編集部
ヨシムラジャパン 3代目社長
加藤陽平さん

1975年11月19日生まれ、神奈川県出身。ポップ吉村氏の右腕として知られたレーシングライダーの加藤昇平氏と、ポップ吉村氏の次女・加藤由美子氏の間に生まれる。2002年にヨシムラジャパン入社。2007年にレースチームの監督に就任し、国内外のレース活動を率いる。2024年に吉村不二雄氏の後を継ぎ代表に就任。
ファンに愛されるヨシムラを続けていくことが自分の使命
──加藤さんは昨年3月、ヨシムラジャパンの3代目代表取締役社長に就任されました。就任にあたってのお気持ちと決意を、あらためて振り返っていただけますか。
「創業70周年というタイミングでヨシムラブランドを引き継ぐことになりましたが、2002年の入社以来ずっと、自分が会社を継ぐとは思っていなかったんです。ヨシムラのレースチーム監督として表に出ているけれども、会社では事業を支える役目として、自分のできることをしていこうという気持ちでいました。ただ、僕は母子家庭ということもあって(※レーシングライダーだった父の加藤昇平さんはテスト中の事故で死去)、子供の頃からヨシムラという会社を遊び場のようにしてずっと暮らしてきた。会社に行かない時も、おじいちゃん、おばあちゃんの家で過ごすことが多くて、言ってみれば、そこはポップ吉村の家なわけですよね。だからもう本当に幼少時代から、ヨシムラのなんたるかとか、いかにヨシムラがファンの方々に愛されているかとか、そういうことを自然と肌身に感じながら過ごしてきたとは思います。なので、代表取締役を任されるとなって最初に思ったことは、ファンに愛されるヨシムラを続けていくことが私の最大の使命だということでした。会社の規模を大きくすることよりも、ブランドとして皆さんに愛され、リスペクトされ続ける会社であり続けることが責任だと感じましたし、その思いは就任以来、変わっていませんね」
──ヨシムラを立ち上げた祖父のポップ吉村さん、そしてポップさんの長男であり前社長、現在は相談役の吉村不二雄さんは、加藤さんにとってどんな存在ですか?
「ポップ吉村とは“おじいちゃんと孫”という関係だけなんですよ。逆に不二雄さんとは、親戚としての付き合いはそこまで深くなかったんです。不二雄さんはアメリカにいた期間も長かったですし、会う機会はあるけれど、おじいちゃんのように家でお世話になっていたとかはないので、やっぱりヨシムラに入社してからの、仕事としての関係性の方が大きいんですね」
──“おじいちゃん”としてのポップ吉村さんはどんな方でしたか?
「よくすごく怖い人とか、厳しい人とか、カムシャフトを投げられたとか(笑)、いろいろなエピソードを聞きますが、僕の印象は全然違うんですよ。いつも優しくて温厚で、いろんなことを教えてくれたイメージです。冗談もすごく好きでしたし。バイクの話は全くしなくて、飛行機の話をよくしていました。とは言え、僕が小学生の頃にはおじいちゃんは引退して家にいることが多かったけれど、それでも小さい頃にシャーシダイナモで計測したり、会社で作業したりする姿を見ていた記憶はありますね」
創業者
吉村秀雄さん

1922年10月7日〜1995年3月29日 福岡県出身。「ポップ吉村」の愛称で知られ、“ゴッドハンド”と称された名チューナー。戦後、地元・福岡で進駐軍のオートバイの修理を請け負ったことからレース用マシンの性能アップに取り組み始め、1954年にヨシムラモータースを創業。世界初のオートバイ用集合管マフラーを開発、プライベーターながら鈴鹿8耐第一回大会で優勝など、国内外でさまざまな偉業・記録を残した。2000年、本田宗一郎氏と共に日本人初のAMA殿堂入り。
2代目社長
吉村不二雄さん

1948年11月生まれ 福岡県出身。吉村秀雄(ポップ吉村)氏の長男。1971年にポップ氏の手掛けたAMA参戦マシンのメンテナンスのために渡米。1989年にヨシムラジャパン代表取締役社長に就任する。1980年頃からPCを使った独自のチューニング技術を編み出し、社長就任後もMJNキャブレターやDuplexサイクロンなどの開発を手掛けた。現在は相談役。
野球に夢中だった少年がレース業界に飛び込むまで
──幼い頃の話も含め、ヨシムラに入社するまでの経歴について教えてください。
「小学校の頃は、“世界一のチューナーになりたい”なんて言ったりもしてました。家族旅行なんてしたことがなくて、旅行といえば会社の慰安旅行。家族で出かける先はサーキット、という環境で育ちましたから(笑)。でも中学から野球を始めて、高校時代は地元の進学校で野球にどっぷり夢中の生活でした。そして大学進学を考えていた高校3年の時に母が亡くなりまして、その半年くらい後に祖父のポップ吉村も亡くなって。じつはほぼ同時期に、加藤の方の祖父も亡くなり、身近な人が一度にいなくなってしまったんです。結局、大学に進学はしたけれど中退。その後、ヨシムラから独立したメカニックの方が“プラプラしてるんだったら手伝いに来いよ”と言ってくれて、そこから本格的にレース業界に入りました。そんな経歴だから、学生時代に目標に向かって突き進んだとか、お世辞にも胸を張って言えることはないけど、ただ、その時にやってきたことが後で非常に役に立ったんです。だからうちの社員にも、若い時にいろんなこと経験して欲しいな、と思いますね」

──現在の仕事に活きているという当時の経験について、詳しくお聞きしたいです。
「ひとつは野球です。高校が進学校だったこともあってか、野球部の監督も当時としてはかなり異例のアプローチをする人で、筋肉の名称を覚えるテストがあったり、ウェイトトレーニングも、メーカーの栄養アドバイザーの方を呼んでプロテインなど栄養管理の重要性を学ぶことから始まったりと、科学的な取り組み方を高校時代に学ぶことができました。
また、大学時代に勉強もせず何をしてたかというと、近所に子供向けの遊びの塾をやっている人がいて、そこで一緒にボランティアのような活動をしてたんですね。長期の休みには子供を連れて一週間、四万十川に川下りに行くとか、島にキャンプに行くとかしてて。2000年にアラスカに行ったときは、塾の主催者と一緒にプランを立てた後、先に一人で現地に行って、言葉も喋れないままセスナのチャーター便を予約して受け入れ体制を整えたりもしました。
そういう経験が、後にすごく役に立ったんですよね。外国でも物怖じせず、誰に対してもフラットに接することができるし、新しいことへの抵抗感もない。今でも僕が会社の中でやることは、ほとんどが新しい挑戦です。
例えば、2021年にスズキさんから運営委託を受けてEWC(FIM世界耐久選手権)参戦チームを立ち上げた時も、本当にゼロからのスタートでした。しかも日仏の合同チームだったので、海外との契約事から全て僕がやらなくてはいけなかった。でも、それまでの経験のおかげで淡々とやるべきことに向き合えました。同じような企画を立ち上げ、苦労された日本のチームの話も聞くので、自分では当たり前のことをやってたつもりだけど、後から人に言われて、結構すごいことをやったんだなと気づくことも多いんですよ(笑)」
四輪の現場で叩き込まれたチューニング技術
──ヨシムラ入社前に働かれていたのも、二輪レースの会社だったのですか?
「まず、ヨシムラを独立されたチューナーさんに声をかけていただき、レース用の二輪エンジンの組み立てを学びました。その後、やはりヨシムラ出身で、ミッド・ウエスト・レーシングを設立して四輪のエンジンチューニングをされていた中西知之さんの元で働くこととなり、ECUのセッティングやデータロガーの解析などを四輪レースの現場で学んでいたんです。中西さんはニスモのエンジン製作などを手掛けた名チューナーですが、他に類を見ないほどに厳しい人でしたね。僕も働き出したらあっという間にゲッソリ痩せたりと、物理的にも精神的にも厳しい職場でしたが、知識も技術も突出した人の言うことに当然反論もできない。最初はいつ辞めてやろうかと考えていたけれど、夢中で勉強するうちに少しずつ中西さんの仕事が理解できるようになってきて、だんだんと自分の技術にも自信が持てるようになっていったんです。本当に特殊と言っていいレベルで妥協しない人でしたが、おそらくヨシムラを立ち上げた祖父も同じだったんですよ。勝つためには何でもやってやるという真剣さの度合いが、普通の人とはかけ離れていたのだと思います」

──四輪レースの現場での学びが、ヨシムラでどのように生かされましたか。
「僕がヨシムラに入社したのが2002年12月ですが、この年は全日本選手権でもキャブレターからFIへ移行するタイミングで、GSX-R1000ベースのS1-Rでプロトタイプクラスに参戦していたヨシムラは、FIのセッティングに苦労していました。現在もですが、インジェクション化は四輪の方がだいぶ先に進んでいましたから、僕はヨシムラのスタッフから相談を受けて、筑波サーキットのテストに同行することになったんですね。そこでセッティングの進め方について理論も含めてアドバイスしたのがきっかけで、不二雄さんから“ヨシムラに来い”と言われたんです」
──入社後はすぐに、レース活動に携わるようになったのでしょうか。
「まずはエンジンの開発チームのひとりとして、組み立てからサーキットでのセッティング、開発まで担当していました。そこからエンジンに軸足を起きつつも、現場で車体のセッティングをしたりするクルーチーフのような立場になっていった。で、当時は不二雄さんがチーム監督でしたが、僕はあまり組織や役職を気にするタイプじゃないので、自分がやった方がうまくいくと思ったことは自分で勝手にやり始めたんです(笑)。例えば8耐のレース中にライダーをいつピットインさせるかとか、知らないうちに自分が指示を出すようにしていって。いま思えば、なぜその自信が出てきたってところはありますけど、“お前に任せる”とか言われてもないのに勝手にやり始めたので、不二雄さんにはよく怒られました。“お前はいつも屁理屈ばかり言う”って(笑)。その後、2007年にはヨシムラチームの監督に就任しましたが、2006年頃にはスズキさんとの折衝も含めて、監督の実務はほぼすべてやるようになっていました」

加藤さんがヨシムラのチーム監督に就任した2007年。2台体制で参戦した鈴鹿8耐では、#34号車の加賀山就臣・秋吉耕佑組が完璧な走りで27年ぶりの優勝を果たした。

酒井大作・徳留和樹・青木宣篤の3人体制で挑んだ2009年は、3番手スタートの決勝レースで2位以下全車を周回遅れにする快走を見せ、1978年、1980年、2007年に続く4度目の勝利を手にした。
