今年で創業53年を迎えたデイトナは常にライダーの声に耳を傾け、ユーザー視点に立った独自の企画力、開発力で、世界中のライダーからの多種多様なニーズに応える商品をリリースしてきた総合パーツメーカー。2016年に3代目社長に就任した織田哲司さんに、デイトナが積み重ねてたきた歴史と目指すべき未来について聞いた。
文:齋藤春子/写真:松川 忍

株式会社デイトナ

画像: 静岡県周智郡森町一宮4805 TEL.0120-60-4955 https://www.daytona.co.jp/

静岡県周智郡森町一宮4805
TEL.0120-60-4955

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1972年創業のオートバイアフターパーツメーカー。1970年、創業者の阿部久夫氏がアメリカ・フロリダ州デイトナ・ビーチで開催されるバイクの祭典「デイトナウィーク」を見て、その壮大さと自由さに驚き、感動したことが社名の由来となっている。

自社内に全長750mのロードテストコースを備える充実の設備を活かした独自の企画力、開発力で、ライダーのニーズに対応する商品・サービスを提供しているバイク文化創造企業。


株式会社デイトナ 代表取締役 社長
織田哲司さん

画像1: 〈インタビュー〉株式会社デイトナ 代表取締役社長 織田哲司さん|専門がないからこそ、時流の変化をキャッチできる

1961年生まれ、長年開発の現場を担当し、間接部門を経て2016年に第3代社長に就任。現在も時間が許せばソロキャンプツーリングを楽しんでいる。

画像: 「じつは新潟より北、岡山より南を走ったことがないので、時間ができたらツーリングすること」が夢。

「じつは新潟より北、岡山より南を走ったことがないので、時間ができたらツーリングすること」が夢。

いちど会社を離れてみたら開発仕事の面白さがわかった

──織田社長は2016年にデイトナの3代目社長に就任されましたが、それまで長く開発現場を担当されていたそうですね。

「そうです。じつは私、デイトナに2回入社しているんですよ。公開している経歴は1990年入社となっていますが、その前に一度辞めていて、別のバイク関連会社で働いてから再入社したのが1990年なんです」

──そうなんですか!? 再入社だと公表していない理由が何かあるのでしょうか?

「いえ、そのことは、修行レベルで、影響をおよぼさないので(笑)」

──修行といいますと、デイトナを一度退社された後は、どんなお仕事をされていたのですか?

「20歳を過ぎてデイトナに入社し、6年ほど働いた後、バイクパーツなどをハンドメイドで試作する会社に入りました。当時は若くて、いちど興味がわいたら止まらなくて転職したのですが、試作はメーカーから指定された依頼内容に沿って忠実に作る仕事なんですね。でもデイトナでは企画開発を担当していたので、自分の創意工夫が認められる。外に出て初めて気づいたデイトナという会社の面白さがあって、創業社長(※初代・代表取締役社長で、現・相談役の阿部久夫氏)に相談したんです。そこで『一定期間、ちゃんと仕事をしてから戻ってこい』と言われて、1年以上モノづくりの修行をしてから、デイトナに戻りました」

──それだけ企画開発の仕事に魅力を感じていたということは、やはり、もともとライダーがいま欲しいものは何かや、こんな商品があったら便利ではないか、ということを考えるのがお好きだったのですね。

「でも若い頃は創業者のトップダウンだったので、何を作るかは、もう言われるがままでしたよ(笑)。これはもう笑い話ですけれど、僕が企画開発していた頃のデイトナは、ブレーキパッド『赤パッド』を中心に400ccなど中型バイク用のカスタムパーツ商品をラインアップしていました。それがある日突然、初代社長が『これからスクーターもやるぞ!』と言い出したんですよ。何も知らされていなかった社員の中からスクーター担当が何人か選ばれて、すぐに開発用のスクーターが届きました。でも全員スクーターは未知の世界だから、とりあえずクラッチ側のカバーを外して、アクセルを開けながら、無段変速機がどう動くかを理解するところからスタートしました。当時は会社にノウハウのあるなしは関係なく、社長がやるぞと決めたら即、新しい開発部門が立ち上がっていましたね」

画像: 1984年から愛され続ける超ロングセラー商品のディスクブレーキ用ブレーキパッドの「赤パッド」と、1981年に刊行された「デイトナカタログ」の創刊号。

1984年から愛され続ける超ロングセラー商品のディスクブレーキ用ブレーキパッドの「赤パッド」と、1981年に刊行された「デイトナカタログ」の創刊号。

画像: 織田社長が企画開発を担当した商品の数々には、ビックボアキットやハイスピードプーリーなど、ヒット商品が多数ある。

織田社長が企画開発を担当した商品の数々には、ビックボアキットやハイスピードプーリーなど、ヒット商品が多数ある。

カスタムのデイトナからツーリング用品のデイトナへ

──その後は企画開発部長、国内事業部長、二輪事業部長などを経て、2016年に代表取締役社長に就任されました。

「僕が就任する数年前に、デイトナは大きな転機を迎えました。というのも、2006年の違法駐車取り締まりの強化、さらに2008年のリーマンショックの影響で、ビッグスクーターブームに支えられていた売上が急激に落ちたんです。2007年には年間45億円ほどあった売上が、2008年からの3年間で32億円を切るほどに落ち込みました。それをきっかけに、これまでのようにブームに合わせたカスタムパーツを主軸とするのではなく、今後は“ツーリング”や“快適”をキーワードにした商品開発をしなければ生き残れない、という結論に至ったのです。まずは、ジャンルごとに分かれていたカスタム部門をひとつにまとめるなどの組織変更を行い、2012年には二輪事業部の商品グループも、カスタム・ツーリング・リプレイス・ライディングギアの4グループに集約しました。その頃から売上も徐々に戻ってきて、2013年にはミノウラと共同開発したスマートフォンホルダーがヒット商品となったんですね」

──スマートフォンホルダーはヒット商品となる確信があったのでしょうか。ライダーのニーズを探る秘訣を知りたいです。

「今はあまりやらなくなったけど、以前は道の駅などのライダーが集まる場所に毎週通って、定点観察をしていました。そうするとだんだん『あれ? 以前はこんな車両に乗ってるライダーはいなかったな』って見えてくるものがある。そしたら今度は別の場所で、インプットした情報を元に同じ視点でライダーを見るんですね。すると、ライダーの中で徐々に広がりつつあるものが明確になってくる。その中でデイトナにないもの、且つある程度売上があるカテゴリーを探っていくんです。たとえば人気商品となったパイプエンジンガードは、昔のエンジンガードって大きく張り出して、不必要に目立って格好悪かったじゃないですか。でもツーリングを楽しむライダーが増えて、ツーリング先での立ちゴケに恐怖心がある人は多いはずだと。そうなると、ツーリングや快適といったワードから考えたエンジンガードはありだね、となったんです。そこから、その場に並んだ車両の数に対するエンジンガード付きカスタム車の比率を計算することをいろんな場所で繰り返しながら、数ヵ月かけて『このくらいの数は売れるだろう』と算段していきました」

──売れる根拠を見つけて商品化したと。

「そうですね。スマートフォンホルダーを作ったきっかけも、その頃の定点観察ではスマートフォンのマウントをつけたバイクがいちばん目立っていました。なので、当時グループ会社だった二輪用品店のライコランドに行き、『いま用品店では自転車用のスマホマウントを売ってるけど、どれがいちばんいいの?』って聞いたんですよ。そしたら『ミノウラが最強です』と言われたので、会社に戻ってすぐミノウラさんに電話して、『デイトナという会社の者ですが、一度お話を聞いてくれませんか』とお願いしました。結果、共同開発をさせてもらえることになって大ヒットにつながったんですね。その他にもウインドシールドのシリーズを立ち上げたりと、ツーリング用品のシェアが上がっていくと共に売上も戻っていきまして、2018年頃には年間売上が45億円ほどに回復。さらに2019年以降は、順調に売上が伸びて現在に至ります」

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