監修:青木宣篤 まとめ:高橋 剛
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2ストV型3気筒から4ストV型5気筒に移行したが……
前回のハナシの続きである。'02年からケニー・ロバーツさん率いるプロトン・チームKRで走ることになったワタシ。スズキ時代、いろいろなパーツを取っ替え引っ替えし、バイク作りの基礎・基本を学んだが、プロトン・チームKRではもっとディープでもっとコアな、「バイクはどうすれば走るのか」という根本に触れることになる。
プロトン・チームKRの1年目と2年目の途中までは、プロトンKR3という2ストV型3気筒マシンで走った。パーシャルからスロットルを開けるほどにグリグリ曲がっていくフィーリングは、実に新鮮。ケニーさんはずっとヤマハでレースをしていた人だから、フレーム剛性もヤマハに近かったのだろう。ワタシはヤマハでレースしたことはなかったが、「ふむふむ、こんな感じなのか」と疑似体験できた。V型3気筒ということもあったが、フレーム自体もしなやかで、よく曲がるバイクだった。

プロトンKR3で戦った2002年はMotoGP元年。「想像以上に4スト990ccとの差が大きく上位に行けるチャンスは少なかったが、もし500ccだけなら表彰台争い出来たマシンだった」と語る(青木宣篤blogより)。
'02年は、皆さんご存じの通りMotoGPマシンのエンジンが4スト化された「MotoGP元年」だ。プロトン・チームKRは、'03年のシーズン途中から独自開発の4ストV型5気筒エンジンのプロトンKR5を投入した……のだが、これがとんでもないシロモノだった。
日本メーカーは、新しいエンジンの導入に際しては非常に慎重だ。しっかりじっくりたっぷりと耐久テストをこなし、全方位的に隙なくOKが出てから、ようやく実戦で使われるのが一般的である。しかし、チームKRは大胆そのものだった。完成ホヤホヤのエンジンをいきなりマシンに載せ、エアストリップ(ほぼ滑走路だけの超簡易的な田舎の空港)をストレートに見立てて10往復ほどすると、「よっしゃオッケー!」となり、翌週のレースに投入されるという、とんでもない勢い。そんなのでレースになるわけがなかった(笑)。

当時最強だったRC211VのV5レイアウトを踏襲したプロトンKR5だったが、4スト990cc V型5気筒エンジンはKRの独自設計によるものだった。
まともに走らないKR5と格闘しながら、ワタシは「バイクはなぜ走るのか」という根源的な問いにぶつかることになる。「きちんと走るのが当たり前」という日本メーカーだけで育っていたら、決して持つことのない、ディープな問い。「そもそもバイクとは、いったいなんなんだろうか」と、半ばテツガク的な疑問さえ抱いていた。バイクの基本の基……いや、ひらがなの「きほん」の「き」の最初の横棒を引くような状態だったからだ。
ツインインジェクターの罠に気付く
KR5のエンジンは、ツインインジェクターが採用されていた(ちなみに最近のMotoGPマシンはシングルが多い)。簡単に説明すると、燃料を噴射するインジェクターがスロットルの近くと遠くにふたつ設けられているから「ツイン(またはデュアル)インジェクター」である。そしてスロットル開度50%まではシリンダーに近い方の第1インジェクターが燃料を噴射し、50%以上になると遠い方の第2インジェクターが燃料を噴射する仕組みだった。
精密な制御が必要なことは、容易に想像できると思う。そして、エアストリップを10往復しただけで、そんな精密な制御が実現できているはずがないこともまた、容易に想像できるだろう。実際、あるスロットル開度でどうしても息ツキが発生し、走れたものではなかった。
そのことを指摘しても、エンジニアは「いや、ちゃんと燃料を噴射しているぞ」と言うばかりだった。当時はデータ収集のレベルもまだまだだったから、致し方ない。しかし原因を深掘りしていくと、第1インジェクターがスッと燃料噴射を終えてから第2インジェクターがプッと噴射を始めるため、スッとプッの間にごくわずかなタイムラグが発生していたことが分かった。
そこで第1インジェクターから第2インジェクターに切り替わる際、わずかなオーバーラップを設けると、息ツキは見事に解消された。後のツインインジェクターには、最初は第1インジェクターのみ、スロットル開度が増すとそこに第2が加わり、第1と第2の両方が同時に燃料を噴射するものも出てきたが、当時のチームKRにはそこまでの知見はなかった。トラブルが発生しても何が原因かよく分からず、いろいろやって解消していきながら、経験を積み重ねていくしかなかったのである。

フロントが浮かないように全身全霊でプロトンKR5を押さえつけたというノブ青木。のちに「良いバイクだったなぁ」と語るまでに進化。
こうした事案が多数発生したおかげで、ワタシとしてはバイクという乗り物の「き」と「ほ」と「ん」を根本から理解することができた。MotoGPフル参戦は'04年、プロトンKR5でのランキング21位という惨憺たる結果で終えたワタシだが、バイクに関して実に多くの知見を得ることができ、今なお大きな財産となっている。
そりゃあマニアックにもなろうというモンです
……と、キレイなシメを迎えたように見えるが、話はまだ終わらないのだ。'05年から10年以上にわたり、今度はスズキMotoGPマシンの開発ライダーを務めた。V型4気筒のGSV-Rから、MotoGP参戦休止中の直列4気筒GSX-RRまで、スポット参戦を含めてこれはこれで数多くを得られた貴重な経験だった……が、キリがないのでまた折に触れて。

2007年のリズラ・スズキ(ゼッケン9)を駆るノブ青木・マシンはV型4気筒のGSV-Rだった。
ひとつだけ挙げておくと、スズキMotoGPマシン開発では「いかに自分を一定に保つか」を学べたのが大きかった。人間の調子でタイムが変わってしまうようでは、マシンを正確に評価できない。朝イチから夕方まで、常に同じ感覚で、フラットに、なおかつ速く走り続けることは、フィジカル面も含めて新しい進化が必要だった。このことも、今の自分に大いに生きている。

'15年にプロトタイプのGSX-RR(並列4気筒)を走らせるノブ青木。のちにジョアン・ミル選手の手により'20年のシリーズチャンピオンを獲得するまでに至った。
というわけで、世界GP500ccクラス参戦(ホンダ・サテライトチーム→スズキ・ファクトリーチーム→プロトン・チームKR)、MotoGPクラス参戦(プロトン・チームKR→スズキ・ファクトリーチームからスポット参戦)、ブリヂストンタイヤ開発ライダー、ダンロップタイヤ開発ライダー、そしてスズキMotoGPマシン開発ライダーと超駆け足に振り返ってみたが、我ながら本当に希有な体験をさせていただいたと思う。
さすがに20年以上前の話なので、今の人たちには理解してもらえないだろう……と思っていたら、最近はYouTubeで過去のレース動画をたくさん観られるため、逆に世代間のギャップが埋まってきているように感じる。「岡田忠之さんとのトップ争い、すごかったですよね!」と、'91年全日本ロードのことを、当時はまだ絶対生まれていなかった若者から言われたこともある。
いい時代になったなぁ、と思うと同時に、いいレーシングライダー人生を歩めたとも思う。ライダーとしてはあまり華々しい結果を残せなかったかもしれないが、いろいろな経験をしたことで長くこの世界に携わることができたし、こうしてマニアックなコラムも書けるのだから……。
青木宣篤さんも解説を務めるMotoGPを観るならコチラ!
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