監修:青木宣篤 まとめ:高橋 剛 写真提供:青木宣篤/ブリヂストン
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なぜランキング3位になれたのか、今でもよくわからない
webオートバイ愛読者の皆さん、ノブ青木こと青木宣篤です。少し前、海外のXで小椋藍選手が話題になった時、なぜか「青木宣篤」と自動翻訳され、ちょっと話題になった青木宣篤です。Ai OguraとNobuatsu Aokiを混同するのだから、AIもまだまだですね。

欧州のヤマハレーシングがXに投稿した「小椋藍、ヤマハへ!」というポストが、なぜか青木宣篤と自動翻訳された。
さてこのコラムでは、MotoGPを始めとしたレース関連情報を中心に、バイクをハードウェア、ライディングの両面から徹底的にマニアックに深掘りしていくつもりだ。第1回の今回は、自己紹介がてら、なぜワタシがマニアックになったのか、というお話をさせてただきたい。

1990年、全日本ロードレースでNSR250を走らせる青木宣篤さん。カップヌードルカラーを覚えていてくれる読者はけっこうベテランかも?
全日本ロードレースを経て、'93年から世界グランプリに参戦していたワタシ。'93〜'96年はGP250だったが、'97年は最高峰のGP500にステップアップ。デビューイヤーで2位1回、3位3回と計4回の表彰台でランキング3位となり、勝利こそ挙げられなかったものの、新人賞をいただいた。

'97年、F.C.C. TSR HONDAからGP500に参戦してランキング3位を獲得。
しかし、そこまでのワタシはほぼ何も分かっていなかった。今になって振り返ってみても、GP500デビューイヤーだった'97年のワタシがなぜランキング3位までイケたのか、そしてなぜ勝つことができなかったのか、よく分からない(笑)。当時は25〜26歳、いわゆる勢いだけだったような気がする。
それまでのワタシはずっとサテライトチーム(プライベーター)だったが、翌年の'98〜'00年は念願のメーカーファクトリーチーム入りを果たした。スズキ・グランプリ・チームでRGV-Γ500を走らせたのだ。残念ながらランキングはパッとしなかったが、いよいよマニアック化が始まったのはこのあたりからだ。
サテライトチームのライダーは、与えられたマシンをいかに速く走らせるかが仕事だ。マシンを改変できるのはいわゆるセッティングの範囲に留まり、大それたことはできない。しかしファクトリーチームになると、できること、やってもらえることの幅がガーンと広がる。
レストランに例えてみよう。サテライトチームは、「はい、これ食べてちょうだいね」と出来合いの料理を出されておしまい。せいぜい塩コショウなどの調味料で加減できる程度だ。一方のファクトリーチームは、「青木様、本日はいかがいたしましょう?」と尋ねられ、そもそもの料理を選べる……といった感じだ。
至れり尽くせりのファクトリーチーム、なのに成績は伸びなかった
スズキ・グランプリ・チーム時代で言えば、1年目にサスペンションの銘柄をKYBからSHOWA(当時)変えてもらった。SHOWAの減衰の出方が好みだったからだ。ピボット位置も、エンジン搭載位置も、ワタシ好みに変えてもらうことができた。ちなみにピボットやエンジン搭載の位置を変えると、バイクはまったくの別モノになる。まさに料理そのものを変えてしまうぐらい激変するのだ。

NSR500でランキング3位になって翌'98年、ゼッケン3を付けたRGV-Γ500を走らせた。
しかしワタシのスズキ2年目である'99年に、ケニー・ロバーツ・ジュニアが加入。ジュニアの好みでサスペンションはオーリンズに変わったのだが、これはワタシには合わなかった。さすがにファクトリーチームと言えども、ふたりのライダーが別々のサスペンションメーカーというわけにはいかず、少しずつオーリンズに慣れていくしかなかった。この年のワタシはオランダGPでかろうじて4位になったものの、ランキングは13位だった。
スズキ3年目の'00年、ジュニアは見事にチャンピオンを獲得するのだが、ワタシはランキング10位。4レースで4位になったが、表彰台に立つことはできなかった。非常に悔しい思いをしたし、スズキ・グランプリ・チームでの4年目の契約を得ることもできなかった。クビである。
面白いもので──いや当事者としては決して面白くはないのだが──、あれこれいじれないホンダのサテライトチームではランキング3位になれたのに、サスペンションは変えられるわ、ピボットやエンジン搭載位置は変えられるわ、剛性違いのフレームやスイングアームを試せるわ……と、至れり尽くせりだったスズキ・ファクトリーでは成績を残せなかったのだ。
スズキRGV-Γ500では、ホンダNSR500を上回るほどバチッと来るものがなかったのだ。決してRGV-Γ500のパフォーマンスが劣っていた、ということではない。何しろジュニアが同じマシンでチャンピオンを獲得したのだから、あくまでもワタシとの相性の問題だ。かなりの幅でいじり倒すことができても、素のキャラクターの合う・合わないはどうしようもなかった。
NSR500はエンジンが強力でトルクフルだったが、全然曲がらなかった(笑)。RGV-Γ500はヒラヒラと軽快なハンドリングで車体は非常に扱いやすかったが、エンジンはトルクが薄く、ピーキーだった(笑)。また、ブレーキの特性もワタシのライディングには合わず、苦労した。
今になって振り返れば、RGV-Γ500のクランクマスをもう少し重くしてもらってピーキーさを抑える、などといったアイデアもあったかな、と思うが、当時は今ほど精密にデータを採ることができず、ライダーもエンジニアも「人の感覚100%!」という開発だった時代だ。ワタシとしても「ピーキーである」と現象を伝えることはできても、エンジニアたちとその原因を突き止め、解決するところまで導くことはできなかった。
グリップ力を上げるだけではタイムは出ない
スズキ・ファクトリーを放逐されたワタシは、'01年の1年間、ブリヂストンのMotoGPタイヤ開発ライダーを務めた。ブリヂストンは、MotoGP元年の'02年から最高峰クラスへの参戦を決めており、「ミシュラン帝国をやっつける!」という意気込みはアツかった。

ブリヂストンのタイヤ開発チームに。レーシングスーツの左のライダーが青木宣篤さん。中央にアーヴ・カネモトさん、右のライダーは伊藤真一さん、そして右から3番目はMotoGP参戦の総責任者を務めた山田宏さん。
だが、タイヤのパフォーマンスは……(苦笑)。タイムはミシュランの5秒落ちだったし、グリップも3周保たない。「とりあえずはタイムだ、スピードだ!」と、最初のうちはとにかくタイムを出せるタイヤを追求した。
ブリヂストンは猛烈な勢いで開発を進め、いろいろなスペックのタイヤを用意してくれた。なんと半年後にはミシュランの1秒落ちまでタイムを短縮し、「これなら'02年からの参戦も何とかなるのでは……」というレベルまで持ち込んだのだから、本当にアツい。
とりあえずはグリップレベルを高めたが、それだけでいいわけではなかった。グリップと接地感を別個に切り分けて、それぞれを追求した。膨大な量のタイヤをテストしたため、得られたものもめちゃくちゃ多かったが、興味深い例をひとつ挙げるなら、「グリップ力を上げるだけではタイムは出ない」という知見だろう。後輪を適切にスピンさせた方が、タイムが出るのだ。もちろん、スピンさせすぎてはいけない。グリップしながらも、ほどよくスピンするタイヤ。適切なスピンレート探しは、開発の大きな局面になった。

タイヤ開発のためにホンダが貸与してくれたNSR500。このプロジェクトが、のちにブリヂストンワンメイクの時代へと繋がっていく。
余談になるが、実はワタシは'04年にダンロップのMotoGPタイヤ開発にも携わっている。MotoGPでミシュラン、ブリヂストン、そしてダンロップを履くことができ、各メーカーの開発姿勢の違いなどをディープに知ることができて、タイヤの理解という点でも非常に貴重な経験となった。
青木宣篤さんも解説を務めるMotoGPを観るならコチラ!
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