文:齋藤春子/写真:松川 忍、南 孝幸
レースの仕事をすることは運命のようなものだった
──ホンダワールド創設者の藤井璋美さんは、1950年代からホンダ初のワークスチーム「ホンダスピードクラブ」のライダーとして活躍。ライダー引退後は「テクニカルスポーツ」を立ち上げ、数多くの優秀なライダーを輩出しただけでなく、レース運営にも携わり、鈴鹿8耐の立ち上げにも尽力されました。不勉強ながら私は知らなかったのですが、鈴鹿8耐の11時30分スタート、19時30分ゴールというレース形式も、璋美さんが生み出したものだそうですね。ただ、息子である藤井さんは最初からレースの仕事に就いていたわけではなく、一時期は大阪で就職されていたと聞きました。
藤井「世の中の動向と一緒で、会社としても変化の歴史があるわけですよ。それが普通のことだし、ホンダでさえレース活動を一時休止したり、経営が危うくなったりという遍歴を経てるじゃないですか。うちの親父はずっとホンダの仕事を受けてきて、鈴鹿サーキットが誕生したこと(※1962年)をきっかけに関東から鈴鹿に引っ越してきたんだけど、その後に、ホンダは世界グランプリ参戦を一時休止してしまった(※1966年にロードレース世界グランプリで史上初の5クラス完全制覇を果たしたホンダは、1967年もメーカータイトルを獲得。この年限りで世界グランプリから撤退することを発表した)。仕事がゼロになった親父は大変だったと思いますよ。ガソリンスタンドをやったり、麻雀屋を手掛けたり、いろいろやってた姿を子供ながらに覚えていました。だから『レースなんかやるもんじゃないな』と思ってた。でも逆に、それでも二輪レースの仕事に没頭する親父を見て育ってきたから、チームを引き継ぐことに自分の可能性や、運命みたいなものを感じたと言えるかもしれない。親父が『廃業する』と言い出したのをきっかけに大阪から鈴鹿に戻ってきて、そこからやり直して今に至りますけど、親から『やってくれ』と言われたことは一度もないんですよ。むしろ最後まで『性懲りもなくル・マン24時間耐久に挑戦とか、バカなことするな。レースなんかやめろ』と言われてました」
──チーム監督としてTSRを率いてきたのは、藤井さんの意志だったと。
藤井「そうだね。もう40年以上前だけど鈴鹿に戻ったのは大きかったと思う。会社は鈴鹿サーキットから数百mの距離にあるから、毎日レーシングサウンドが聞こえてくるし、サーキットに通う人が困ったことがあると立ち寄っては、ボルトはないかとか、溶接してくれないかとか言ってくるわけですよ。当時の俺もバイクに乗ってはいたけど、レースからはむしろ離れようとしてたから、『なぜこの人達はレースなんかやってるんだろう?』と思ってた。でも自分でやらずに文句だけ言うのもなと思って、1回実際に走ってみようとレースに出てみたら、変わったよね」
──どのような変化があったのですか?
藤井「速く走りたいし、勝ちたいという気持ちが強烈にわかってしまった。当時はモリワキさん、ヨシムラさんをはじめ、すごいチームがいっぱいあったので、やるからにはそういう一流チームにも負けたなくない、勝ちたいと思うようになったんです。ただ、俺は宮城光や福本忠よりちょっと上の世代だけど、彼らと一緒に走ると、自分にライダーの能力がないのはすぐにわかった。勝つためには、自分の資本やマシンづくりの能力を才能あるライダーの育成に投資した方が早道と思ったから、監督やマシン製作に専念するようにしました。でも最初はライダーに自分のバイクを渡して走らせてて、自己資本で始めたとすら言えないような状況。それが気がついたら世界にも挑戦するようになって、今もまだ続いているんだから、無謀でろくでもない人間なのは確かだね(笑)」
自分たちだからできる勝ち方を徹底的に追求し続けてきた
──とはいえ、チーム運営には大きな資金と労力がかかります。「やりたいからやる」という意志だけでは続けられないシビアな世界でもある中で、プライベーターチームであるTSRさんが、長年、国内外でのトップ争いを続けることができた秘訣は何だったのでしょうか。
藤井「それこそ、メーカー支援に頼ることのない、プライベーターだったからでしょう。弱小チームである我々が、どうすればファクトリーチームに勝てるのだろうと、メーカーが考えないこと、やらないことを徹底的に追求してきた。例えばブリヂストンとの関係は、バトラックスブランドが誕生して間もない頃からだけど、最初はブリヂストンを履くチームなんて他にいなかったんです。でも、他と同じことをやっていたら勝てない。当時はまだタイヤ性能の当たり外れが大きかったブリヂストンと一緒にやろうとなったのは、我々だからできるやり方で勝とうという戦略でもあった。結果として、今やブリヂストンは鈴鹿8耐を18連覇中だからね」
──1991年にTSRさんが急遽、世界GPの125ccクラスにフル参戦を決めた時も、ブリヂストンは慌ただしい準備に迅速に対応されたと聞きますから、レースのプロ同士、盟友といえる関係性なのですね。2016年からEWCへと戦いの舞台を移したのも、ブリヂストンからの誘いがきっかけだったとか?
藤井「やっぱりブリヂストンとの仲ありきでしたよね。要は、2015年を最後にブリヂストンがモトGPのタイヤサプライヤーを撤退することになって、海外拠点を引き上げなくてはいけなくなった。エンジニアも含めて、それまでの開発陣も解散しなくちゃいけない状況だけど、世界耐久への挑戦を始めるなら残せるって話だったんだよ。ブリヂストンが突然『藤井さん、ル・マン24時間耐久レースをやらない?』と言いに来て、どうしたのか聞いたらそういう話だったから『わかった』と。さっきの酒匂との握手じゃないけど、その場で手を握ったよね。ただ、2016年の初めてのル・マン24時間は3位こそ獲ったけど、タイヤは全然ダメだった(笑)。というのも、スプリントレースのモトGPとEWCは大きな違いがあって、路面温度の幅がかなり広いんです。特に24時間耐久はその幅がすごくて、ル・マンの明け方とか、路面温度が2℃、3℃まで下がった中を走らなくちゃいけない。でもブリヂストンの開発陣もすごく頑張ってくれて、今のタイヤはかなり良くなりましたよ」
──結果、TSRさんは2017/2018年と2022年にEWC世界チャンピオンを獲得。その後も世界各地で勝利を納めてこられたわけですね。
藤井「もちろん俺達自身も努力したからね。やっぱりタイヤを良くするためには、我々もできることは全部やらないと良くならないじゃないですか。毎年、うちは冬の岡山でテストするんだけど、岡山でやる理由は寒いから。そこで性能をちゃんと発揮するものを作って、ル・マンに持ち込むって流れができていて、そういう、勝つための努力というのは、わりとちゃんとしてきたチームだとは思うよ」
──藤井さんご自身の中で、これまで特に印象に残っている勝利はありますか?
藤井「こういうインタビューとかで話が出るとピンポイントで思い出すけど、過ぎたレースのことはほとんど覚えてないんだよね。昔のものは何ひとつ取っておいてないし、申し訳ないけど、当時の雑誌も手元に残ってない。こだわりとかなくてね」
酒匂「そういえば、会社でもトロフィーとかをほとんど見かけないですね」
藤井「そう。俺が捨てても誰かが拾ってきて残ってるものはあるけど、そのくらい。ただ、チームを始めた時は、まず鈴鹿4耐で勝ちたいと思ったんですよ。バイクブーム的には、福本と宮城がペアを組んで優勝した1983年がピークだったんだけど、我々が初めて勝った1988年は、エントリー台数的には過去最高に多かったんです。そこで勝てたことはちゃんと覚えてるかな。クラッチメーカーのF.C.C.と出会ったのもその頃だしね」
──現在までTSRチームのメインスポンサーを務めているF.C.C.ですね。
藤井「バイクを速くするためにオリジナルのクラッチが欲しくて、パーツを作ってくださいとお願いしたことから、いまの関係性が始まったんです。当時はクラッチメーカーの存在を一般のライダーはまず知らなくて、ホンダのバイクに使われてるクラッチはホンダが、ヤマハ車のクラッチはヤマハが作ってると思っていたんですよ。それが今や、F.C.C.のステッカーを自分のバイクに貼ってる人も多い。これまで『タイトル獲得のための企画書』とかを作って協力をお願いしたことは一度もないけど、こうして関係性が続いているのは、やはり一緒にやりがいを見出だせたことが大きいんじゃないですかね」
2024年にTSRカフェ「サロック」がオープン

本社併設のTSRカフェ「サロック」は、以前、藤井さんの母が敷地内で経営していた「喫茶サロック」の名を復活させたもの。藤井さんが長く温めていた「ライダーが気軽に立ち寄ったり、なにか困ったときに受け入れてくれる居所を作りたい」という思いが具現化された場所でもある。

通常は平日限定営業だが、EWC決勝日はパブリックビューイングが開催されることも。
