文:宮崎健太郎/まとめ:オートバイ編集部

浅川邦夫さん
1954年生まれ、神奈川県出身。1978年、ヨシムラ設立後2人目の正社員として入社し、在籍中はメカニック兼テストライダーとして長年にわたりレース車両の開発に携わり、公道仕様コンプリート車「Tornado 1200 Bonneville」の開発責任者も務めた。
1991年にヨシムラを退社。翌1992~1993年には、辻本聡氏とともにampmレーシングチームを結成し、監督としてホンダNSR500で全日本ロードレース選手権500ccクラスに参戦した。1994年にはバイクショップ「アサカワスピード」を立ち上げた。

Asakawa Speed(アサカワスピード)
神奈川県横浜市青葉区寺家町603−2
雑誌広告の住所を頼りに、ヨシムラパーツショップ加藤を探すも……

▲AMAスーパースポーツでヨシムラがチャンピオンに輝いた1994年8月。表彰式にPOP吉村氏とともに出席する浅川さん。
──浅川さんとヨシムラの結び付きは、最初はどのようなものでしたか?
「僕が20歳くらいの頃、加藤昇平さん(※加藤陽平社長の父)が営む『ヨシムラパーツショップ加藤』に行ったときが最初ですね。雑誌広告を見たらヨシムラのピストン、カム、バルブスプリング、マフラーなどを扱っていて、住所が僕が住んでいた横浜・保土ヶ谷から近い厚木と書いてありました。当時事故車みたいなホンダCB750フォアを自分で直して乗っていたのですが、憧れのヨシムラのチューニングパーツが欲しい! とその住所を訪ねたんです。
ところが行ってみると、その住所にお店らしい建物がないんです。近くの酒屋さんにヨシムラパーツショップ加藤ってありませんか? と聞いても、いやぁ知らないなと言われて……。ただ酒屋さんが言うには、ヨシムラというデッカいカタカナをプリントしたTシャツを干している家はあると。その言葉を頼りに探してみると、二軒長屋みたいな借家と物置があって、そこに由美子さん(※加藤昇平さんの妻、POP吉村氏の次女)がいました。由美子さんのお腹に、現社長の加藤陽平さんが入っていた時でしたね。物置の中にはマフラーとかパーツが入っていて、売ってください! とお願いして販売してもらいました。
昇平さんが所帯を持ってすぐに始めた店は、ショールームとかはなくてお店っぽい佇まいではなかったです。僕みたいなお客さんは結構来たみたいで、通販もやっていて手狭になったこともあり、同じ厚木市内にヨシムラパーツショップ加藤は移転することになったんです。新しいお店になってからは、本格的に入り浸るようになりましたね。ヨシムラのクラブ員になって、レース活動を始めたのもその頃です。1977年にアメリカのヨシムラ工場が火災に遭って、オヤジさん(POP吉村氏)が日本に戻って来たり、またアメリカに行ったりと、バタバタしている時期でした」

▲1977年、浅川さん初レースの写真。マシンはカワサキZ2で、エンジンはヨシムラチューン。そのライディング技術から、浅川さんはテストライダーにも起用された。
急造メカニックとして臨んだ1978年鈴鹿8耐でのヨシムラ優勝
──POP吉村氏との初めての出会いは、覚えていらっしゃいますか?
「それは覚えてますよ。運送業のバイト帰りにお店に寄って話をしていたら、地味な背広姿なんだけど足元は派手な蛍光ブルーのスリッパを履いていて、そこだけすごく目立っている人がお店に入ってきたんです。てっきり、店の大家さんが集金にでも来たのかな? と思ったら、昇平さんから『浅川、POP吉村、オヤジさんだよ』と言われて……そこからもう僕は、直立不動ですよ。雑誌などにはチューニングの神様と書かれていた人ですから、畏れ多くて。
1978年の鈴鹿8耐が終わった時、僕はまだ学生だったんです。アメリカのAMAで走らせていたスズキGSのスーパーバイク仕様で8耐やるぞ! ということになって、その時はオヤジさんが監督、昇平さんがテストライダー、大屋(※幸二、初の正社員)がメカニックで、8耐の1週間前にアメリカから(吉村)不二雄さんが来ました。プロなのは彼らくらいで、残りのスタッフは僕みたいなヨシムラの取り巻きの、素人集団だったんです。
オヤジさんは僕らに、手取り足取りレースに必要なことを教えてくれました。人がいないからとにかく僕のような素人でも、8耐本番までに使える人材にしないといけないと必死だったと思います。RSC(ホンダ・レーシング=HRCの前身)は観光バス2台でメカニックを運んで来ていて、その光景に僕は圧倒されちゃいましたが、僕のような素人もいるヨシムラがあの年8耐で勝てたのは、オヤジさんの執念ゆえかと思います。

▲1987年鈴鹿8耐。大島行弥/K.シュワンツ(写真右)組は予選は3位だったが、決勝序盤でリタイア。そしてG.グッドフェロー/高吉克朗が最終盤のまさかの転倒で2位と、悲喜交々な大会だった。
「1978年の8耐後に念願叶って社員になれましたが、翌年から毎年8耐が終わると辞めたい、と思いましたね。体の具合がいつも悪くなって……。だから当時の写真を見ると、精気がないというか魂が抜けたような顔になってます(苦笑)。とにかく一番上のオヤジさんが集中力を切らさないでやっているので、こちらも集中して作業をやり続けないといけないですから。」
監督をしてみて気付かされたオヤジさんの情熱の凄み

▲整備作業に励む浅川さん。「どっちかと言うと、僕もオヤジさんも耐久レースよりスプリントが好きでした。理由? 2人とも短気だから(苦笑)」とは浅川さんの弁。
──レースに情熱を燃やしたPOP吉村氏ですが、チューニング以外のこと……ライダーやメカニック育成にも一家言ありました?
「それはなかったですね。タイムが出ないと悔しそうな顔はしますが、オヤジさんがライダーを責めることは一切なかった。勝てなければ、更にチューニングを施して勝てるバイクにするだけです。オヤジさんは24時間エンジンをチューニングしていたいという気持ちの持ち主で、よく工場の上に住みたいんだ、と言っていましたよ。工場に通う時間がもったいない。上に住んでいたら、アイデアがひらめいたらすぐ工場で作業ができると……。
そういうオヤジさんと一緒にいるわけですから、仕事には常に緊張して取り組んでいました。オヤジさんは耐久仕様でも、ギアミス一発で壊れるくらい突き詰めてエンジンチューンをしていました。もうちょっとチューニングの度合いを落として耐久性を保つようにする……というのはオヤジさんは許さなかった。まわりは皆緩めたがったけど、とにかく徹底的にやる! というのがオヤジさんのやり方でした。
オヤジさんはどこのサーキットでもコース寄りに行って、耳に手を当てがってバイクの音を聴いてました。そこまでしなくても……どしっとピットで大将らしく構えていて欲しいなと、当時は思ったりもしたものです。でも僕が全日本の500ccクラスで監督をした時、初めてオヤジさんのしていたことが理解できました。
辻本(聡)が走っている時、心配から自然と自分も耳に手を当てて走行音を聴いていました。排気音以外にも、本当に色んな音が聞こえてくる。これくらい集中して、撤退して速く走らせるために、あらゆることをしないといけない……。オヤジさんの心を知ることができました。これを長年続けてきたオヤジさんの凄さに、遅ればせながら気付かされました。ヨシムラでの経験は財産であり、オヤジさんには本当に感謝しています」

▲限定販売された、当時最速の公道車の誉も高いヨシムラボンネビルのカウルなど、ヨシムラ時代のオートモビリアがアサカワスピード店内には数多く飾られている。

▲アサカワスピード店内に掲げられている額装は、POP吉村氏の座右の銘。
文:宮崎健太郎/まとめ:オートバイ編集部


