まとめ:オートバイ編集部

辻本聡さん
1960年2月19日生まれ、大阪府出身。日本を代表するオートバイレーサーであり、レーシングドライバーとしても活躍。1985年、ヨシムラスズキから全日本TT-F1クラスにデビューすると、ルーキーながら初年度でチャンピオンを獲得。
翌1986年には連覇を成し遂げた。1987年のデイトナ200では2位に入賞し、国際舞台においても、その実力を証明した。その後は四輪レースにも挑戦し、スーパー耐久ST-4クラスでチャンピオンを獲得するなど、二輪・四輪を越境する“ドライダー”として名を馳せた。
現役引退後は、バイク専門カフェ「PILOTA MOTO」を経営する一方、MotoGP解説者や各種メディア出演を通じて、幅広くモータースポーツ文化の発信に携わっている。

PILOTA MOTO(ピロータモト)
神奈川県横須賀市野比5丁目6-39
営業時間:11時~17時
定休日:月・火・金曜日
バイクで走ることが大好きな青年が掴んだ栄光への道
──当時のヨシムラはすでに有名なレーシングファクトリーでしたが、どのようにしてヨシムラで働くことになったのですか?
「大阪出身の自分が、まさか関東にあるヨシムラに入ることになるなんて、夢にも思っていませんでした。当然ヨシムラの名は知っていましたが、自分の中では“関東のチームは黙々と作業している”という印象が強く、むしろアメリカで活躍する姿の方をイメージしていました。そんな折、カワサキの社内チーム「Team 38」からGPz750で全日本TT-F1クラスに参戦し、ランキング3位を獲得した喜多祥介君が、ヨシムラで走ることになったのです。彼とは同じ会社で働いたこともある旧知の仲でした。
ちょうどその頃、ヨシムラがもう一人ライダーを探していたらしく、喜多君のマネージャーが自分を推薦してくれたのです。当時の自分はストリート上がりの走り屋に過ぎず、誇れるようなレース実績はといえば、ノービスとB級で2回優勝し、幸運にもそのまま国際A級に昇格できたことくらいしかありませんでした。サーキットで通用するかどうかは正直“未知数”でしたが、若さゆえに根拠のない自信だけは溢れていました」
──POPさんと初めてお会いしたときの印象はどうでした?
「1985年、自分はライダー契約ではなく社員としてヨシムラに入社しました。オヤジさん(ポップ吉村)のことは“チューニングの神様”として当然知っていました。初めて会ったときは、こわもてな顔をしているな〜、と思ったことを覚えています(笑)。ただ、自分の戦績は大したことがなかったので、迎える側の期待も、身長が高いから何とかなるだろう程度。正直、あまり注目されていませんでした。入社してからはたまにオヤジさんの運転手を務めましたが、緊張のあまり車内でまともに会話できた記憶はほとんどありません。
ある日、一緒に移動していたとき突然大声で笑い出し、「どうされたんですか?」と尋ねたら、『パワーが出る方法を思いついたんだ!』って、四六時中、頭の中はチューニングのことでいっぱいでした。ただ、仕事を離れると一転してダジャレ王に変身しました。食事中に同じダジャレを繰り返し、相手が笑うまでやめないんです。普段は硬派で怖いイメージがあったので、笑うと逆に怒られるんじゃないかと不安になり、引きつった笑いをしていました。そんな環境に慣れるまで、少し時間がかかりました。頑固な人でしたが、オヤジさんを悪く言う人は誰ひとりもいませんでした。たとえミスして殴られても、殴られた本人は喜んでいましたよ。まるでアントニオ猪木さんのような存在ですよね。
そういえばブライトロジックの竹中さんがヨシムラに在籍していたとき、TT-F3のGSX-R400にF1用のイグナイターを誤装着し、それが原因でリタイアしたことがありました。翌日の朝礼でオヤジさんが『歯をくいしばれ!』と言うなり、竹中さんを平手打ちしたんです。僕の知る限り、本気でオヤジさんに殴られたのは竹中さんくらいですね。今では『俺はオヤジに本気で殴られた伝説の男だ!』と竹中さんは誇らしげに自慢してます」
当時、ヨシムラのマシンは2スト以上にピーキーだった

▲1986年、デイトナにケビン・シュワンツ、ウェイン・レイニーとともにGSX-R750で出場した辻本氏。
──POPさんのマシンに初めて乗ったときの印象を教えてください。
「初めてヨシムラのマシンに跨ったときの嬉しさは、今でも鮮明に覚えています。当時はがむしゃらに走っていましたが、振り返ればヨシムラのマシンには現在のレーサーのような“扱いやすさ”は皆無でした。極限までチューンされたエンジンには強烈な谷があって、それを超えると一気にパワーが立ち上がるんです。1万回転を超えた瞬間にフロントが浮き上がり、鈴鹿のヘアピンの立ち上がりでは延々とウイリーしてました。時にはハイサイドで空を飛んだこともありました。
その頃、水谷勝さんが乗るスズキRG500Γに試乗する機会がありました。それまで500ccの2ストレーサーなんて怖くて乗れないと思っていたのですが、これが意外に乗りやすくて拍子抜けしました。むしろヨシムラの初期の油冷マシンの方が、はるかにピーキーでした。F3のエンジンはさらにシビアで、一度シフトミスをすると即エンジンブローだから何回エンジンを壊したかわからない。それくらい当時のヨシムラのマシンを乗りこなすのは難しかったのは事実です。速さと丁寧さ、そのどちらかが欠けても即ブロー。だからオヤジさんが「パワーを上げたぞ!」と誇らしげに言うたびに、ドキドキしながら走ってましたね。それほどまでに徹底してパワーを追い求めてました」
喜ぶオヤジさんの顔を見るたび自分の存在価値と自信が増した

▲1985年、POP吉村氏とともにTT-F1の勝利者インタビューを受ける辻本氏。トップチェッカーを受けると帽子を振り回して喜ぶオヤジさんの笑顔が忘れられないそうだ。
「最終ラップ、トップのまま最終コーナーを立ち上がると、オヤジさんが帽子を振り回して喜んでいる姿が見えるんです。その姿を見るたびに『自分が走ることでこんなに喜んでくれる人がいるんだ』と心から嬉しくなりました。同時に、自分の存在価値を強く実感し、大きな自信につながりました。今の若者は、自分の存在価値を示してくれる大人やそのような機会に恵まれることが少ないのかもしれません。それを言葉ではなく態度で示してくれたのがオヤジさんでした。だから皆んながあの背中について行きたいと思ったんでしょう。25歳の若造だった自分にとって、それは何ものにも代えがたい思い出です」

▲2014年、鈴鹿8時間耐久レース出場に向けて半年間必死に調整を重ね、渾身の走りを見せた辻本さん。

▲辻本さんが営むPILOTA MOTOの壁に飾られている一枚の写真。これはヨシムラ創立60周年となる2014年、ヨシムラは2008年以来となる2台体制で鈴鹿8時間耐久ロードレースに参戦。そのうちの1台は「ヨシムラ創立60周年メモリアルチーム レジェンド・オブ・ヨシムラスズキ」としてゼッケン12を付け、辻本聡/ケビン・シュワンツ/青木宣篤の布陣で出場した。
まとめ:オートバイ編集部


