文:横田和彦/まとめ:オートバイ編集部/協力:Bikers Station
GSXからGSX-Rへ(1986年~)

▲ケビン・シュワンツ、ウェイン・レイニー、フレッド・マーケル、そして辻本聡。まだ未完成で荒削りな存在だった4人は、31度のバンクの先に広がる“世界”を目指して走っていた。
POPから不二雄へ次世代を睨んだ挑戦
スズキ×ヨシムラの「第1次黄金時代」がこの頃、不二雄にはレースとは別の、新たな挑戦があった。
「オヤジはもうすぐ60歳。現役でやれる時間は長くない。でも自分にはオヤジのような経験も戦績も信頼もない。どうやってオヤジを超えるか。同じことをやっていたら誰も認めてくれない。そんなとき目に留まったのがコンピュータだった。これしかない、と思ったよ」
ヨシムラにエンジンダイナモの導入を強く主張したのも不二雄で、早くから理論派の一面を持っていた。
1977年に発行されたアメリカ向けカタログには、ボッシュ製エンジンダイナモで計測した出力曲線が掲載されている。今でこそ当たり前だが、当時としては画期的なことだった。経験や勘だけでは不十分で、正確なデータが不可欠な時代が到来しつつあったからだ。
最初に導入したコンピュータは、自衛隊パイロット用と同じ製品で、プログラムを自ら組まなければならなかった。今のようにワンクリックで動く便利さはなく、明けても暮れても数字に向き合う日々──。
「いったい何をやっているんだろう。本当にこれで役に立つのか」そんな自問自答が続いた。こうして1970年代は幕を閉じていった。

Satoshi Tsujimoto
この苦闘が本当に役立ち始めるのは、さらに10年後。現在、不二雄はヨシムラで使用するコンピュータ関連のプログラムまで自作するコンピュータ・チューナーとなった。インジェクション制御、データロガー、NC工作機械など、現代のレースも製造もコンピュータなしでは成立しない。20年も前に下した彼の決断は、まさに大正解だった。
「でも当時は“役に立たない箱ばかりいじって”と笑われていたけどね」
1985年、空油冷GSX-R750のデビューとともに、レースの指揮権や実質的な経営権はPOPから不二雄へ移行(正式な社長就任は1989年)。空油冷機は初年度からレースで大成功を収め、スズキとの「第2期黄金時代」が到来することになる。

Kevin Schwantz
油冷革命は勝利と共に次なる王者も生み出した
最初に油冷を聞いたときは「何だそれ?」という印象だった。しかし、横内さんの話を聞くと、すぐに「これはイケる」と確信できた。父は「飛行機の紫電改と同じだ」とも言っていたな。
2バルブのGSから4バルブのGSXへと進化する過程で、シリンダーヘッドの熱問題は深刻で、すぐにピストンが溶けてしまうこともあった。さらにロッカーアームのレバー比も悪かった。しかし、その欠点はGSX-Rで見事に改善された。油冷というと奇抜に聞こえるかもしれないが、実際にはGS/GSXからの正常進化であり、むしろ究極のエンジンだったのだ。
油冷の最大の特徴は、シリンダーヘッドやピストン裏にオイル噴射を行い冷却する仕組みにある。シリンダー下部は空冷方式であり、まさにGS/GSXで培われた技術の集大成と呼べるものだった。
もっとも、1985年の夏にはすでに熱との戦いが始まっていた。昼間の走行では遅く、夜になると速くなる、といった具合だ。その後、GSX-Rのオイルクーラーはどんどん巨大化し、やがてサブクーラーまで追加されるようになる。
アメリカでは、GSX-Rの登場と同時にスズキがローカルレースに賞金を懸けた「GSX-Rカップ」ことスズキ・ナショナル・カップシリーズを立ち上げた。ワンメイクではなく、指定されたスーパースポーツクラスのレースでGSX-Rに乗り上位に入れば、順位に応じた賞金が支払われるという仕組みだった。対象はアマチュアライダーであり、そのコンセプトは「サーキットで生まれたGSX-Rをサーキットへ返す」というものだった。

▲GSX-R750(1986年)加藤昇平ゆかりの日の丸ツナギをまとった辻本は、デイトナ初挑戦にもかかわらず、まったく物怖じしない走りを披露した。
ヨシムラもまた、このローカルレースに賞金を提供した。ヨシムラ製エグゾーストを装着したGSX-Rでレースに挑み、結果次第で賞金が得られる。これはサンデーライダーにとって趣味の延長戦であり、未来を夢見るハングリーな若者にとっては大きな挑戦の場となった。
さらに、このカップレースはヨシムラにとって新人発掘の場ともなった。ダグ・ポーレンを皮切りに、スコット・ラッセル、ジェイミィ・ジェームズらがその舞台から羽ばたいていった。1970年代はZ1、1980年代はGSX-R、この2台がスーパーバイクと下支えとなるプロダクションレースを支えてきたといえるだろう。
