文:太田安治、オートバイ編集部/写真:赤松 孝、松川 忍、南 孝幸/協力:Bikers Station、H&L PLANNING
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ただの乗り物としては語れないNSRの持つ魅力とは?(太田安治)

これまでも、これからも永遠と受け継がれる1台
NSR250Rは1980年代レーサーレプリカブームをリードし続けた大ヒットモデル。初代は1986年に登場したMC16型だが、まずは登場に至る背景を振り返っておこう。
1970年代まで250ccロードスポーツモデルは、4ストロークエンジンに絶対の自信を持つホンダを除き、ハイパワー・軽量・低コストという利点を持つ2ストロークエンジン搭載モデルが主流。しかし1976年にアメリカで大気浄化法(自動車の排出ガスに含まれる一酸化炭素や炭化水素の量を規制する内容)が実施され、対米輸出を重要なビジネスとしていたメーカーは4ストへの移行を進めた。
エンジンオイルを燃料と一緒に燃やして潤滑する2ストは規制対応が難しく、排気煙と臭いを嫌うライダーも増え、2スト車は消え去る運命……と思われていたが、1980年に衝撃的なオートバイが登場する。レーサーレプリカの元祖とも評されるヤマハのRZ250だ。

2ストエンジンを得意とする開発陣が「最後の2スト・ロードスポーツモデル」と覚悟を持って作り上げたRZは、市販レーサーTZ譲りの車体構成にクラストップの35PSエンジンを組み合わせ、それまでのモデルとは次元の異なる性能を発揮し、爆発的な人気を得て、ヤマハの想定を遙かに上回る「納車まで半年待ち」という当時としては異例の状況を生み出した。
折しもヤマハが「国内ナンバーワンの座を奪取!」と宣言して始まったHY戦争(ホンダとヤマハによる国内シェア争い)の真っ只中。ホンダは「打倒RZ」を掲げて4ストで対抗。1982年にVT250Fを発売し、RZよりはるかに扱いやすいエンジン特性で大ヒットする。
しかしホンダ得意の超高回転型エンジンをもってしても、同じ排気量では瞬発力に劣り、当時の「何よりも速さ」を求めるライダー達の要求は満たせなかった。
そこでホンダとしては250ロードスポーツクラス初となる2ストエンジンを搭載したMVX250Fを1983年に投入。世界GP用のワークスレーサーをオマージュしたV型3気筒エンジンは40PSを発揮し、RZを王座から引きずり下ろす! はずが、2ストの扱いにくさを解消するYPVSを採用して最高出力を43PSに高めたRZ250R、市販車初のアルミフレームと45PSエンジンを組み合わせたRG250Γが同年に相次いで登場。スペック的に見劣りしたうえに、焼き付きなどのトラブルが多発して「失敗作」と揶揄される結果になってしまった。
新宿のホテルで行われたMVXの発表会終了後、そのまま富士スピードウエイに持ち込んでRZ250Rと最高速計測を行ったが、動力性能も車体の完成度も明らかにRZ-Rが勝っていた。想像だが、HY戦争の影響でMVXは市場投入を急かされ、煮詰め不足だったのだろう。
打倒RZに拘るホンダは1984年にNS250Rを発売。同社の市販レーサーRS250Rを手本としたアルミフレームに45PSのV型2気筒エンジンを搭載し、当時盛り上がっていたプロダクションレースでMVXとは比較にならない戦闘力を誇った。
僕はこの頃、59PSの4スト400cc車でレースに出ていたが、SUGOサーキットの登り10%ストレートではMVXならどこでも鼻歌交じりで、RZ-Rはストレートの中盤で、NSは1コーナー手前で何とか前に出られる、という感じだった。
こうしてNSはホンダ念願の250cc最速モデルとなったのだ。ちなみに「250ccは45PS以下」という国内メーカーの自主規制はRG-Γの登場が引き金になったと言われている。しかし「誤差10%以内」という但し書きを都合良く解釈し、スーパースポーツ系は誤差の範囲ギリギリのパワーを出していた。45PSに10%プラスで約50PSということだ。
しかしNSがクラス最速の称号を与えられていた期間は短かった。1985年11月にヤマハが市販レーサーTZ250と同時開発したTZR250を発売し、各地のレースで圧倒的な速さを見せつけた。
ホンダもヤマハの反転攻勢を予想していて、1986年10月に世界GP250ccクラスでチャンピオンを獲得したワークスマシン、RS250R-Wのノウハウを活かした生粋のレーサーレプリカを送り出す。それが初代NSR250R(MC16型)である。