空冷並列6気筒エンジンのCBX、水冷V4エンジンのVF1000Rと、数々のエポックメイキングなモデルを担当し、1990年代に最強を誇ったHRCの総監督だったホンダのエンジニア、吉村平次郎さんが亡くなった。特にHRC総監督時代には、その強烈な個性から「鬼平」と呼ばれた吉村さん。それでも戦いの場を退いてからは、穏やかで優しい紳士だった。
文:中村浩史
HRCの黄金時代をつくった吉村さん

Honda初の2ストロークモトクロッサー、RC250Mの後期81年モデル 吉村さんによると「ゼロから作ったから、クルマ1台開発するくらいコストかかったんだよ」

上のRC250Mをベースに製作された市販モトクロッサーCR250M

エルシノアMT250 RC250MをベースにCR250Mが生まれ、写真のエルシノアMT250が誕生した
「初めて自分で開発指揮を執ったのは、エルシノア、俺たちがサンサンゴって呼んでたRC250Mっていうモトクロッサーだったよ。中村くん、知ってるか?ホンダ初の2ストロークのモトクロッサーだぞ」
吉村平次郎さん。今から20年前の2006年に定年退職された、Hondaの名物エンジニア。レースファンなら、きっとその名前をどこかで聞いたことがあるだろう。1988年から鈴鹿8耐の指揮を執り、その後は世界グランプリで、HRCの総監督として最強チームを率いた、あの吉村さん。不世出のチャンピオン、ミック・ドゥーハンを見出したのも吉村さんだ。
冒頭の言葉は、06年に行なわれた吉村さんの退任取材でのひとコマ。もちろん、知識としてエルシノアのベースとなったRC250MがHonda初の2ストロークモトクロッサーであることは知っていたし、けれどそれを目の前のおじさん(平さん、ごめんなさい)が担当していたなんて、知らなかった。
-いやぁ、知らないですよ、そんな昔の話(笑)
「そうだろうな、君が生まれたころの話だもんな、わはははは」
いつも真っ黒に日焼けして、エネルギッシュな人--、それが僕の吉村さんの印象だ。
吉村さんとそんな軽口を叩けたのも、もう現場を離れられて「オニ」ではなかったからだ。退任取材のあと、いつかレースの現場でお会いして「おう中村くん、しっかり働いてるかね」『ありゃ平さん、こんちわ。どしたんすか今日は、珍しい』なんて立ち話していたら、ホンダのあるレジェンドライダーがびっくりして【おまえ、どうして鬼平と仲いいんだ?】って驚かれたこともあったくらい。鬼平っていうのは、池波正太郎さんの時代小説「鬼平犯科帳」にちなんだものだったのだろう。

水冷V4エンジンを搭載したVF1000R 84年に発売され、海外向けに生産されたスーパーバイクだ
吉村さんは昭和21年生まれ。昭和39年にHondaに入社し、入社2年目に念願の二輪部門に配属。完成車テスト課を経て、昭和46年から前述の2ストロークモトクロッサー「335」の開発をスタートさせます。平さんの言うとおり、僕が生まれたのはこの頃だ。
初代RC250M、のちのエルシノアの話は他に譲るとして、吉村さんはその後、並列6気筒エンジンのCBX、水冷V4エンジンのVF1000RをはじめとしたVFシリーズを担当。
その後1988年にはHRCに移籍となり、この年の鈴鹿8耐から指揮を執ることになる。その8耐では、88年にヤマハの2連覇を許し(ケビン・マギー/ウェイン・レイニー組が優勝)HRCのメインチーム、ワイン・ガードナー/ニール・マッケンジーはエンジントラブルでリタイヤ、翌89年もミック・ドゥーハンをペアライダーとしたガードナーが接触転倒してしまう。
世界グランプリでは88年にヤマハのエディ・ローソンにタイトルをさらわれ、翌89年にはホンダに移籍してきたローソンが、吉村さんが指揮を執るワークスチームではなく、サテライトチームに所属してタイトルを獲得。吉村さんが鬼平と呼ばれ始めたのはこの頃のことだったようだ。

グランプリで最強を誇ったころのNSR500/97年型ミック・ドゥーハン車
前述のレジェンドライダーに話を聞くと、吉村さんは当時、悪いと思ったものは悪いと断じ、自分を絶対だと譲らないひとで、親しいライダーを作らず、若いライダーには怒鳴り散らすというより、説教が長い-そんな総監督だったのだという。
「でも、それはがっちり面倒見てくれてた、ってことなんだよね。強烈すぎるんだよ。鬼平は苦手だったけど『でも世話になったろ?』といわれたら、みんなウンって言うよね」と彼は語ってくれた。
悪いものは悪いって言う、っていうのは自分に自信があるからで、親しいライダーを作らなかったのはみんなを公平に見ていたから。怒鳴り散らさずに説教が長いのは、その若いライダーのことを思ってのことじゃないのかな、と今ならば思うけれど、きっと眼光鋭く迫られた当事者はそれが苦しかったんだろう。それにしても鬼平とはよく言ったもんだなぁ(笑)。
その後、HRCは黄金期を迎えることになる。鈴鹿8耐では91-92年、94-95年と連勝し、97年からは10連勝を達成。グランプリでは、NSR500が94年から99年まで6連覇を果たした。もちろん、このすべてが吉村さんが指揮を執ったレースではないが、HRCの黄金期だったということには間違いないだろう。

グランプリマシンが4ストロークエンジン車となった2002年、初代チャンピオンを獲得したRC211V。右はデビュー前のプロトタイプ、日尾ダリはバレンティーノ・ロッシがチャンピオンを獲得した2003年モデル
その後、グランプリが4ストロークマシン規定となって、HondaのマシンはV型5気筒エンジンを積むRC211V。これも、吉村さんの作品だった。そしてRC211Vは連戦連勝で02-03年のMotoGPタイトルを連覇し、吉村さんは再び市販車の世界へ。最後に手掛けたのは2005年の東京モーターショーで公開されたE4-01だった。ちなみに「スーパーミニバイク」こと74Daijiroも、吉村さんが「子どもたちにちゃんとしたハンドリングのバイク乗せなきゃいかんだろう」って車体設計を担当されたのだ。

2005年の東京モーターショーで発表されたE4-01。市販こそされなかったが、車体のあちこちに最新技術とオリジナルアイディアがつまったモデルだった
E4-01についても話したことを覚えている。
「E4-01、見た? どうだった?」
-面白そうすけどね、なーんかぬっぺりしてあんまりワクワクはしなかったかなぁ。
「なんだお前、わかってないなぁ。わははは、オレはあれでゴルフ場に乗りつけたいんだよ」
オートマチックでバイクっぽさを感じさせないスタイリングの、クルマで言うところの高級車。それでいてスーパースポーツにも負けない動力性能。平さん、あの時は良さがわかんなくてゴメンナサイ。

退任取材会の際、ミスター・バイク誌で連載された「吉村平次郎を旅する」 ご本人も「めんどくさいよなぁ、あんな取材な」なんて言いつつ「主人、あの本をすごく気に入ってたんですよ」と奥様が教えてくれました
それから吉村さんはHondaを退職され、前述の退任取材でじくり話すことができたのだった。その頃はもう、鬼と呼ばれた険しさなんてなくて、懐の深い、物静かな紳士。いつも真っ黒に日焼けしていて、笑うと歯が真っ白で、まるで健康のお手本のように、顔てっかてか。会うといつもゴルフの話をしてくれたっけな。「オレはな、今からプロゴルファーになるんだよ」っていつも笑ってたっけ。
それからは年に数回しかお会いできなかったけれど、たとえばサーキットで遠くにお見かけして、どなたかとお話しているときに、今は挨拶に行くタイミングじゃないな、私なんか行ってもめんどくさいだろうし、って思っていても、遠くから太くデカい声で「おーい、中村君!」って声かけてくれて、急いで走っていく、なんてことが何度もあった。
世界中にものすごい数のお知り合いやお友達がいて、私なんかその末席にかろうじているくらいだっていうのに、いつも声をかけてくれて、挨拶に行ってもいつもニコニコとお話してくれた。ほんの数回しか会っていない人だって、ちゃーんと名前を覚えている、そんな人だった。
引退した後だって、バイクの話を始めると止まらないし、ちょっとMotoGPが成績悪いですねぇ、なんて話を振ると「800ccになったからって5気筒やめちゃうからだよ」ってスネてたっけ。いやスネてたんじゃない、確固たる考えがあったんだろう。
-HRCも平さんみたいな親分がいないからダメなんじゃないの?なんて振ると
「バカ言うなよ、年寄りはもう口出さないの。若い人たちが頑張ってんだよ」って嬉しそうだった。取材にお邪魔するときも、最初はめんどくさそうなんだけど、書いた文章、発売した本をきちんと読んでくれていて、お礼の電話をくれたこともあった。
「365日、24時間ぜんぶバイクのこと考えてたらいい知恵なんて浮かんでくるんだよ」が口癖だった。付き合いの深さによって、きっと吉村さんの印象ってのは変わるはずだけれど、僕にはずっと、優しいおじさん、鬼平なんて呼ばれてたの? じゃぁ鬼平って優しいおじさんだったんだな、なんてずっと思っていた。

Hondaに入社したころは、社内チーム「ブルーヘルメット」にライダーとして参加されていた吉村さん。写真の74daijiroが、下に記したRC211Vのデザイナーさんが塗ってくれたという車両だ
この1~2年、体調を崩されたみたいで、最後にお会いしたのは1年、いや1年半くらい前だったか。
「今度、メディアのみんなでウチに遊びに来いよ。211Vの初号機のカウル塗ってたデザイナーが同じように塗ってくれた74ダイジロー見せてやるぞ」
-いいすね、ごはんおごってもらおう♪
その約束も果たせないまま、きょうお別れの席に、レプソルカラーの74Daijiroが飾ってありました。なんだよ、こんなところで見せてくれなくても……。
享年79。まだまだお若い、もっとたくさんお話聞きたかったなぁ。でも、お体悪くされていたんだったら、もう苦しまなくていいのか。お疲れさまでした。
さようなら、優しい鬼平こと、吉村さん。あの世でオニに、バイクの車体設計のことでも教えてあげといてください。ありがとうございました。

6月3日にお通夜、4日に告別式が行なわれました 斎場での写真はご家族の許可をいただいて撮らせていただきました
文:中村浩史

