1980年代から90年代にかけて全日本でトップ争いを繰り広げた樋渡治さんは、プロになりたいという意欲はなかったにも関わらず、非凡な才能をモリワキに見出され、スズキワークスライダーへと上り詰めた。そんな樋渡さんの走りをいつも温かく見守っていたのが、POP吉村さんだ。
文:斉藤春子/写真:南 孝幸/まとめ:オートバイ編集部
画像: 樋渡 治 r's gear 三重県亀山市のぼの62-9

樋渡 治

r's gear

三重県亀山市のぼの62-9

宮城県出身、1957年生まれ。20歳でレース活動をスタートし、すぐに国際A級へ昇格。モリワキやスズキのワークスライダーとして全日本選手権や世界選手権に参戦し、ケビン・シュワンツなどトップライダーのマシン開発にも携わった。

1998年にはアールズ・ギアを設立し、実走テストと品質へのこだわりを貫き、オリジナルマフラーをはじめ“走る楽しさ”を追求したパーツ開発に取り組んでいる。樋渡さんは「いまや当たり前になった二輪用集合管を世界で初めて開発したのはPOP吉村さんです。私達マフラーメーカーは、POPさんの開発力の恩恵で商売ができています」と笑う。

POPさん自らがサーキットで声をかけてくれた

画像: ▲現役時代から穏やかな性格で知られ、普段は自らレースでの活躍を語ることも少ない樋渡さんだが、「POPさんのことなら」と快く取材を受けてくれた。

▲現役時代から穏やかな性格で知られ、普段は自らレースでの活躍を語ることも少ない樋渡さんだが、「POPさんのことなら」と快く取材を受けてくれた。

──まず、樋渡さんとPOP吉村さんの出会いから教えてください。

「自分がモリワキレーシングから全日本ロードに参戦して、4サイクルマシンに乗り出した頃ですね。モリワキさんとの御縁は、1981年に鈴鹿8耐の代役ライダーオーディションを受けたことが始まりです。まだレースを始めて数年足らずでしたが、初めての8耐参戦を経て、1982年からはモリワキのライダーとして全日本250ccクラスへフル参戦していました。
1984年の全日本は新クラス、TT-F1(※4スト750cc以下/2スト500cc以下の市販車をベースにしたクラス)と、TT-F3(4スト400cc以下/2スト250cc以下の市販車をベースにしたクラス)が設立され、モリワキのオリジナルアルミフレームにCBX400Fのエンジンを搭載した『Zero-X1』でF3クラスにも参戦していたのですが、その頃から、POPさんが話しかけてくれるようになったんです。
モリワキの創立者はPOPさんの弟子であり、POPさんの長女・南海子さんと結婚された森脇護さんですから、義親子関係ということもあって、それまでもピットでPOPさんの姿を見かけていたけれど、チームが違うので、しょっちゅう話していたわけではありません。それでも、折を見て話しかけてくれた言葉はよく覚えていますね」

レースの敗因を、決してライダーの責任にしなかった

画像: ▲現役当時の樋渡さん。

▲現役当時の樋渡さん。

──声をかけられたときの内容は、アドバイス的なことが多かったのでしょうか?

「走りの技術的なことを言われたことは1度もなくて、ありがたいことに、むしろよく褒めてもらいました。ただ『走りについては何も言う必要はないけど、お前は考え方が優しすぎてちょっとおかしい』とは言われましたね(笑)
いちど菅生のレースで、スタート直後の1コーナーから2コーナーに他のライダーと並んで入っていったことがあって、相手はアウト側の不利なところにいたので、自分がそのままのラインで行ったら絶対に転ぶのが予想ついたんです。スタートしてすぐだったし、まぁいいかと思って、そこで自分は1回引いたのですが、POPさんにはレース後に『なんであそこで引いたんや』と怒られて。『レースは戦争やからな。引いたら殺されるのと一緒やぞ』と言われました(笑)
不利なラインにいるライダーが転ぶのは自業自得で仕方ないのに、有利なところにいる側がなんで引くねん、と。そう言われても、自分の性格上どうしても『引いて次で抜けばいいや』と思ってしまうのは変わらなかったのですが(笑)、あのPOPさんが自分の走りをそこまで細かく見てくれていることが、怒られたとしても嬉しい経験でした」

──その他にも、POPさんからの声がけで印象に残っていることはありますか?

「モリワキさんで走っていた頃、F1クラスに出ることが直前に決まったレースがありました。決勝ではヨシムラさんのところのライダーとバトルになり、結局最後は負けて2位になったのですが、POPさんが表彰台まで来て、『今日のお前の走りは素晴らしい。最高だった』と褒めてくれたんですよ。『えっ!? ヨシムラさんが勝ったレースなのに?』って驚きました。しかもピットに戻ってからも、POPさんは『勝てなかったとしても、走りの内容は今日はお前が一番良かったよ』と、レースの内容を褒めてくれたので、もう泣きそうになりましたね。
確かに1位は逃したけど、自分的にも走りの内容には満足できたレースだったので、そこまでちゃんと見てくれているのかと本当に感動しました。そうやって、いつもPOPさんはライダーの走りをよく見ていたし、必ず褒めてました。負けたレースのインタビューでも、ほぼ必ず『今日はマシンが悪かった。ライダーはすごかったんだけど』と答えていて、ライダーを責めないんです。それだけ信頼してもらえたらライダーは最高に嬉しいし、育ちますよね。実際、ヨシムラ出身の優秀なライダーはすごく多いじゃないですか。人を育てる面でもすごい人だったと思いますね」

画像: ▲モリワキからスズキワークスへチームが変わっても、POPさんはサーキットでの樋渡さんの走りをいつも褒めてくれた。「2サイクルに全く興味がない人なのに、ちゃんと見てくれていることが嬉しかった」と樋渡さんは当時を振り返る。

▲モリワキからスズキワークスへチームが変わっても、POPさんはサーキットでの樋渡さんの走りをいつも褒めてくれた。「2サイクルに全く興味がない人なのに、ちゃんと見てくれていることが嬉しかった」と樋渡さんは当時を振り返る。

──「POPさんを嫌いな人はいない」と皆さんが口を揃える理由がわかります。

「POPさんが難関試験を突破して、18歳の若さで航空機関士となったそうですが、もともとは戦闘機乗りになりたかったのだと聞いたことがあります。でも確か体調的な理由でなれなくて、その後は戦闘機のメカニックをしたり、戦時中には死を覚悟したパイロットの姿を間近で見ることもあったそうです。
ライダーは褒めるけれど、ひとつのミスが人の命を奪いかねないメカニックには非常に厳しかったのは、戦争中の経験が大きかったのではないでしょうか。よく『ライダーは命をかけてやってるんだ。お前らは命かけてるのか!』と檄を飛ばすこともあったと聞きました。
そしてPOPさんのすごいところは、自分にも非常に厳しかったこと。メカニックへの厳しさも、その根底にはちゃんと愛情があったからこそ、誰もがPOPさんに着いていきたくなったのでしょうね」

その生き様も魅力的だった究極のレースエンジン職人

──樋渡さんはレースを引退後、マフラーメーカー「アールズギア」を立ち上げましたが、技術者の立場から、技術者としてのPOPさんのことをどう評価されますか?

「いやいや、評価なんて……! もう超スペシャルな存在ですよ。自分がモリワキレーシングで走り始めてまだ間もない頃、森脇さんがふと『優秀な職人は10分の1ミリの精度まで手作業で仕上げられる。でもPOPさんは100分の1ミリまで手作業で仕上げられる』と言ったんです。
昔はカムシャフトの最終調整は手作業だったのですが、そんな高いレベルの精度はPOPさんでなければ出せなかったそうです。POPさんには天性の鋭敏な感覚もあったのかもしれないけれど、それだけの高い精度を実現するためには極限まで神経を研ぎ澄ませ、凄まじい努力を重ねたはずです。
あの本田宗一郎さんが一目置いたエンジンチューナーという事実もすごいことですし、世界中に名だたるエンジニアやメカニックは大勢いますが、POPさんのような究極のレース用エンジンの職人はなかなかいない。それまで4気筒のレースエンジンには4本出しのマフラーが当たり前だった時代に、いちはやく集合マフラーを作り出したのもすごいことだと思います。超一流のアイディアマンでもあり、まさにゴッドハンドと言われた究極のエンジニアであったPOPさんは、愛情溢れる、すごく尊敬できる人でした」

画像: ▲「終わったことに興味がない」という樋渡さんは、レーサー時代のトロフィーや写真はすべて整理してしまい、POPさんとの写真も一枚も持っていないという。写真はスズキワークスライダー時代の貴重な一枚。

▲「終わったことに興味がない」という樋渡さんは、レーサー時代のトロフィーや写真はすべて整理してしまい、POPさんとの写真も一枚も持っていないという。写真はスズキワークスライダー時代の貴重な一枚。

文:斉藤春子/写真:南 孝幸/まとめ:オートバイ編集部

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