4ストロークの高性能スポーツモデルのエンジンは気筒あたり4バルブを採用する・・・これは現代のライダーにとっては当たり前のことと認識されています。2バルブよりバルブ面積が大きくとれる、バルブの小型軽量化で高回転化に有利・・・などが一般によく知られる4バルブのメリットですが、鬼才ファビオ タリオーニがドゥカティの主任設計者だった時代、彼は気筒あたり2バルブのデザインにこだわりました。その理由は、どこにあったのでしょうか・・・?
※この記事はウェブサイト「ロレンス」で2025年6月27日に公開されたものを一部編集し転載しています。

気筒あたり2バルブ・・・の信奉者だったタリオーニ

ドゥカティに詳しくない方でも、ファビオ タリオーニの名前は聞いたことがあると思います。1950年代のグランプリで活躍した名門F.B.モンディアルを経て、1954年からドゥカティに加入したタリオーニは1956年にドゥカティ初のデスモドロミック(強制開閉弁)機構採用車の125GPを完成させます。

画像: F.タリオーニ(1920〜2001年)は、1954〜1989年の間ドゥカティの主任設計者および技師長をつとめました。 www.ducati.com

F.タリオーニ(1920〜2001年)は、1954〜1989年の間ドゥカティの主任設計者および技師長をつとめました。

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1968年型からデスモドロミック(以下デスモ)は量産単気筒にも採用されるようになり、1970年代以降の同社の主力製品となるVツインモデルにもデスモは採用され続けていきました。現在、MotoGP最高峰クラスを席巻しているドゥカティデスモセディチにも、その名が示すとおりデスモは取り入れられており、ある意味デスモはドゥカティの「シグネチャー的」技術になっているといえるでしょう。

デスモのことはさておき(笑)、タリオーニは気筒あたり2バルブの「信奉者」でした。1972年、タリオーニは当時ドゥカティが取り組んでいた世界ロードレースGP(MotoGPの前身)500ccクラス用マシン・・・500GPの開発のため4バルブヘッドをテストしたりしていました。しかし、期待ほどのパワーアップを2バルブバージョンより得られなかったこともあり、タリオーニはその後も2バルブ信仰を保ち続けることになりました。

画像: 伊ボローニャのドゥカティ ムゼオ(博物館)に展示される500GP。1971年から参戦開始しましたが、グランプリで優勝することはなく、1971年のユーゴスラビアでのレースイベントでジルベルト パルロッティが500GP唯一の勝ち星を記録しています。なお500GP用試作4バルブシリンダーヘッドはデスモドロミックではなく、一般的なバルブスプリングを採用していました。 www.facebook.com

伊ボローニャのドゥカティ ムゼオ(博物館)に展示される500GP。1971年から参戦開始しましたが、グランプリで優勝することはなく、1971年のユーゴスラビアでのレースイベントでジルベルト パルロッティが500GP唯一の勝ち星を記録しています。なお500GP用試作4バルブシリンダーヘッドはデスモドロミックではなく、一般的なバルブスプリングを採用していました。

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2輪の世界では、2バルブの競技用エンジンの時代が結構長く続きました

4ストロークの高性能スポーツモデルのエンジンは気筒あたり4バルブを採用する・・・これは現代のライダーにとっては当たり前のことと認識されています。2バルブよりバルブ面積が大きくとれる、バルブの小型軽量化で高回転化に有利、燃焼室中央に点火バルブを配置しやすい・・・などが一般によく知られる4バルブのメリットです。

インディアンやハーレーダビッドソンの4バルブレーシングモデル、通称「リッキー」ことハリー リカルドが開発したトライアンフ モデルR、そして放射4バルブを備えたラッジのTT用モデルなどなど第二次世界大戦前の成功例はありますが、1900年前後のモータースポーツ黎明期から1950年代まで活躍したロードレース用4ストロークエンジンのほとんどは、気筒あたり4バルブではなく2バルブを採用する例が主流でした。

画像: 1920〜1930年代にロードレースで活躍した英ラッジは、OHVの放射4バルブという当時としては非常にハイテックな動弁系を採用していました。 www.stratford-rudge.co.uk

1920〜1930年代にロードレースで活躍した英ラッジは、OHVの放射4バルブという当時としては非常にハイテックな動弁系を採用していました。

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有名なマン島TTレースのような、長丁場で過酷な公道利用コースが多かった時代、ロードレーサーは高性能とともに高度な信頼性が求められていました。それゆえ、4バルブより動弁系部品点数を減らすことができる2バルブは、「壊れる可能性のある部品点数を減らせる」という利点がありました。

もっとも、そういう消極的理由だけで2バルブが支持されたわけではありません。1960年代までの時代、「早く燃焼させる」という点で2バルブは4バルブより優れているといえました。ピストン上死点後10度近辺で、混合気の燃焼によって高まった圧力が最高になるのが効率的に好ましいです。そのため点火プラグがスパークする点火時期は、上死点前に設定されることになります。上死点後10度近辺で一瞬にして混合気すべてが燃焼を終えれば良いのですけど、それは物理的に無理ですから上死点前で点火させて、上死点後10度近辺で圧力が最高になるのをねらう・・・わけです。

上死点後10度近辺で圧力が最高になれば良いのなら、点火タイミング上死点前30度だろうが60度だろうが帳尻が合っていれるから良いのでは? と考える人もいるかもしれません。ただ燃焼が速ければ速いほど、燃焼室を構成する部品・・・ピストンやシリンダーヘッドを介しての熱損失の時間は短くなります。ゆえに効率については点火タイミング上死点前60度より、30度の方が好ましいのです。

M.ボルディの時代になり、ドゥカティは4バルブを製品化しました

層状で流れに乱れがない場合・・・ガソリン混合気の層流燃焼速度は約0.4m/sで、内燃機関をきちんと機能させるには燃焼が遅すぎます。そこで燃焼速度を上げるためには、混合気の燃焼時に乱流燃焼速度(数10m/s)を活用できる状態にする必要があります。そのために長年多くのエンジニアたちが、ポート形状、バルブ形状、そして燃焼室形状を工夫してきて今に至るわけです。

2輪レースエンジンの世界で長年2バルブが愛用されたのにはこの乱流のひとつ、スワール(シリンダーに対して左右方向の乱流)をコントロールしやすかったのも大きな理由です。吸気バルブが1つの2バルブ方式が理想的なスワールを生み出しやすかったのに対し、2つ吸気バルブを持つ4バルブ方式は、1960年前後の時代の当時の技術では、互いの吸気の流れが干渉してスワールをコントロールするのが難しかったのです。

画像: ノートンファクトリーロードレース活動終焉期の、1954年型ノートンマンクスの燃焼室とピストンのイラスト。ポーランド人技術者のレオ クズミッキのアイデアを取り入れたマンクスは、燃焼室外周、そしてピストンクラウンの「フラット」部の設計が最適な混合気の乱流を発生させ、単気筒エンジンからより多くの出力を絞り出すことを可能にしていました。 www.grandprixengines.co.uk

ノートンファクトリーロードレース活動終焉期の、1954年型ノートンマンクスの燃焼室とピストンのイラスト。ポーランド人技術者のレオ クズミッキのアイデアを取り入れたマンクスは、燃焼室外周、そしてピストンクラウンの「フラット」部の設計が最適な混合気の乱流を発生させ、単気筒エンジンからより多くの出力を絞り出すことを可能にしていました。

www.grandprixengines.co.uk

1960年代までの多くの2バルブレーシングエンジンの点火時期が上死点前32〜35度くらいだったのに対し、多くの4バルブレーシングエンジンは上死点前40度以上の設定が必要でした。この燃焼の遅さこそが、タリオーニが当時4バルブを好まなかった理由のひとつといわれています。

画像: 1961年の世界ロードレースGP(現MotoGP)250ccクラスを席巻した、ホンダRC162(空冷250cc 4ストロークDOHC4バルブ)のピストンとシリンダーヘッド。一般的なシートリング材を使わず、燃焼室に鉄製のスカルを鋳込むのは、この時代のホンダ車の特徴でした。吸気・排気バルブの挟み角は広く、圧縮を稼ぐためピストンクラウン部は盛り上がっており、燃焼室の表面積は大きめでした。©︎The Motorcycle CLASSICS

1961年の世界ロードレースGP(現MotoGP)250ccクラスを席巻した、ホンダRC162(空冷250cc 4ストロークDOHC4バルブ)のピストンとシリンダーヘッド。一般的なシートリング材を使わず、燃焼室に鉄製のスカルを鋳込むのは、この時代のホンダ車の特徴でした。吸気・排気バルブの挟み角は広く、圧縮を稼ぐためピストンクラウン部は盛り上がっており、燃焼室の表面積は大きめでした。©︎The Motorcycle CLASSICS

1985年、ドゥカティはカスティリオーニ兄弟のカジバ傘下となり、技師のマッシモ ボルディが新型車開発の責任者となりました。ボルディはボローニャ大学時代の1973〜1974年に、4バルブ方式デスモドロミックの学位論文をまとめていたのですが、そのアイデアは1986年の748 IEプロトタイプ、そして1987年に発表されたドゥカティ初の水冷4バルブ・デスモドロミック採用量産車である851に結実します。

ボルディが4バルブ方式デスモドロミックを開発する際、参考にしたのは4輪F1エンジンの最高傑作と称されるフォード コスワースDFVでした。

画像: 851に搭載された、デスモクワトロエンジン。SBK(世界スーパーバイク選手権)などで活躍した歴代水冷4バルブツインモデルの、開祖となった名機です。 www.facebook.com

851に搭載された、デスモクワトロエンジン。SBK(世界スーパーバイク選手権)などで活躍した歴代水冷4バルブツインモデルの、開祖となった名機です。

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高い信頼性、ストレスメンバー構成などDFVの優れた設計はいろいろあげることができますが、燃焼室設計に関してDFVの特筆すべき点は、後にタンブルと呼ばれることになる、シリンダー縦方向の乱流・・・バレル タービュランスの活用に成功していたことでした。

英コスワースのキース ダックワースはバレル タービュランスによる燃焼促進効果に着目し、吸気・排気のバルブ挟み角やバルブタイミング、そして最適なダウンドラフト吸気ポート形状などを追求。その結果優れた燃焼速度を可能とした4バルブ燃焼室を有するDFVは、デビューした1967年のF1シーズンから高い戦闘力を発揮し、好成績を残しました。

当初DFVはロータスへの独占供給でしたが、1968年以降は他のコンストラクターにも供給されるようになります。するとやがてDFVのバレル タービュランスのポテンシャルは、多くのエンジニアたちの間にも知れ渡るようになっていきました。ドゥカティに入社する前の、若きボルディもダックワースの設計に魅了されたエンジニアのひとりです。彼の学位論文は、デスモドロミックとDFV式4バルブ燃焼室の融合といえるものでした。

画像: バルブ挟み角32度、ダウンドラフトの吸気ポート形状、そしてコンパクトな燃焼室が特徴のフォード コスワースDFVエンジン(90度V8、3リッター)。4輪F1では1967〜1985年の間の262レースで、合計155勝を記録しています。 pdmclark.co.za

バルブ挟み角32度、ダウンドラフトの吸気ポート形状、そしてコンパクトな燃焼室が特徴のフォード コスワースDFVエンジン(90度V8、3リッター)。4輪F1では1967〜1985年の間の262レースで、合計155勝を記録しています。

pdmclark.co.za

なおドゥカティはデスモクワトロ開発初期に、コスワースの協力を得ていました。コスワースはデスモドロミックを放棄して一般的なバルブスプリングを採用すれば、40度より狭い角度のバルブレイアウトが可能と提案しましたが、のちの851を見てのとおりドゥカティはあえてデスモドロミック採用に固執することを選びました。

多くの歴史書の記述によると、2バルブ信奉者のタリオーニはデスモクワトロ開発に関しても冷淡だったようです。ただボルディは偉大な先輩であるタリオーニのデスモドロミック機構の信奉者であり、自身の夢である4バルブエンジン開発の際に、デスモドロミックを組み合わせることが成功の鍵になると信じていたと、後の時代のインタビューで語っています。2バルブと4バルブ・・・それぞれ異なる方式にこだわったタリオーニとボルディですが、結果的に1980年代半ばのドゥカティの技術革新は非常に上手く行ったといえるでしょう。

文:宮﨑健太郎(ロレンス編集部)

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