MotoGP王者がFIM(国際モーターサイクリズム連盟)に反旗を翻し、独自のシリーズ戦立ち上げを宣言する・・・。今のMotoGPファンの人はそんな話を聞いたら、「んなアホな?」という感想しか抱かないかもしれません? しかし46年前の1979年、そのような話・・・「ワールドシリーズ」という構想にともなう混乱が、実際にロードレースの世界を騒がせたのです。
文:宮﨑健太郎(ロレンス編集部)
※この記事はウェブサイト「ロレンス」で2025年6月22日に公開されたものを一部編集し転載しています。

欧州中心のFIMと、新大陸出身王者の「確執」

戦前の欧州選手権の伝統を継承し、戦後世界ロードレース選手権(MotoGPの前身)が成立したのは1949年のことでした。そしてその30年後の1979年、当時の最高峰クラスであるGP500cc王者のケニー ロバーツは英国GP後に、翌1980年のFIM統括のレースには出場しないことを宣言しました。

1978、1979年、ヤマハのライダーとしてケニー ロバーツは、当時最高峰の500ccクラスの王者に輝きました。彼はアメリカ人初の、グランプリ王者としてロードレースの歴史にその名を刻んでおります。

global.yamaha-motor.com

欧州主体のグランプリ界においてアメリカ育ちのロバーツは当時「異物視」されることが多い存在でした。1978年、スペインGPのプロモーターであり、当時のFIM会長だったニコラス ロディル デル ファレは、その年のスペインGPのロバーツのエントリーを拒否しています。

前戦のベネズエラGPにロバーツが参戦していないため、500ccクラスの経験がないというのがFIM側のエントリー拒否の理由でしたが、最終的にはFIMの譲歩でロバーツはスペインGPに出場することができました。これはロバーツとFIMの最初の大きな確執といえる出来事でしたが、翌1979年スペインGPでの「スターティングマネー」支払い拒否事件が、ロバーツのFIMへの不信を決定付けたといえるかもしれません。

当時のFIM規則で保証されたスターティングマネー=出走者に対する支払金拒否という嫌がらせに激怒したロバーツは、1979年5月開催のスペインGP500ccクラスに優勝したにも関わらず表彰式をボイコットしました。こちらの動画はスターティングマネーを支払わない理由をFIMが語らないことに、怒りを表明するインタビューが収録されています。

画像: Kenny Roberts Jarama 1979 www.youtube.com

Kenny Roberts Jarama 1979

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1979年ベルギーGPでのひと悶着、そして英国GPでの「宣言」

そして同年7月のベルギーGPでは、62名のライダーがボイコットするという大事件が起きました。スパ フランコルシャンのコースは同イベントの直前に新しい舗装工事を終えたのですが、路面に油分が多く残留していたため練習走行と予選で転倒者が続出。安全面の不備を理由に、トップ選手含む多くのライダーがレースをボイコットしたわけです。

ベルギーのボイコット騒動から数週間後、8月の英国GP後にロバーツら40名のライダーは、「ワールドシリーズ オブ モーターサイクル レーシング」事務局を発足させたことを発表しました。これはすなわち、FIM統括の世界ロードレースGPとは別の新しいロードレースシリーズを立ち上げるという、FIMに対して反旗を翻す行動でした。

ワールドシリーズ事務局のライダー側の中心人物となったのは、ロバーツでした。命懸けの競技にも関わらず少ない賞金額、十分とはいえない安全対策など当時のグランプリに多くの不満を抱いていたロバーツの訴えに対し、バリー シーン、バージニオ フェラーリ、ウィル ハートフ、ジョニー チェコット、グレッグ ハンスフォードら有力選手たちも賛同。ワールドシリーズ事務局の実働部隊として交渉などに尽力したのは、当時35歳の英国人のバリー コールマン。彼は英新聞ガーディアンでの8年の記者生活を経て、2輪専門誌モトコースの編集に携わったジャーナリストでした。

画像: Kenny Roberts vs Barry Sheene | 1979 British Grand Prix www.youtube.com

Kenny Roberts vs Barry Sheene | 1979 British Grand Prix

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ワールドシリーズ構想が発表されたこの年の英国GPは、ロバーツとシーンの激しいバトルや、1967年以来グランプリに戻ってきたホンダのNR500炎上など、非常にドラマの多い一戦でした。このレースを観戦したIMG(インターナショナル マネージメント グループ)ロンドン事務所のイアン トッドは、グランプリは感動的でもっと金になるコンテンツ・・・という確信を得ていました。

米企業のIMGは、テニスのビョルン ボルグやジミー コナーズ、ゴルフのジャック ニクラスやアーノルド パーマーなど、当時世界のトップアスリート300人と契約し、マネージメントというビジネスを幅広い分野で確立していました。ロバーツのような才能あるライダーをサポートすることで、ロードレースをもっとマネタイズしたスポーツにできると考えたIMGは、1979年9月にワールドシリーズを支援することを明らかにしています。

ワールドシリーズ騒動が与えた後年のグランプリへの影響

1980年から開催を予定していたワールドシリーズは、500ccクラスをF1、250ccクラスをF2と区分する4輪モータースポーツ的区分を採用。開催コースは伊イモラとモンツァ、英ドニントンパーク、米ラグラセカ、仏ルマン、ベルギーのゾルダー、オランダのザントフォールト、そしてオーストリアのザルツブルクリンクなどが候補地にあげられていました。

1979年シーズンオフ、ワールドシリーズ事務局側は日欧米でメーカー、サーキットオーナー、そして各国のモータースポーツ統括団体に対する実現工作に励みました。しかし、長年グランプリが保持してきたステータス性を持っていない、新興勢であるワールドシリーズを積極的に支援する声は少なく、最終的にはFIMの切り崩し工作にも負けた格好となり、1980年初頭にはワールドシリーズ構想が成り立たないことが明らかになっていきました・・・。

ファンの声は賛否両論ありましたが、ファンにとってのプラス面をあまりアピールできなかったことも、ワールドシリーズが失敗した一因ともいえるでしょう。ワールドシリーズ構想はライダーの待遇改善という権力闘争的側面が強く、ファンのことは二の次的だったことは否めないでしょう。

ワールドシリーズ構想は潰えましたが、FIMとワールドシリーズ側の争いは一方的なFIM側の勝利に終わったわけでもありませんでした。ワールドシリーズ構想はFIMの旧態依然とした運営、安全面への配慮不足などを白日の下に晒す効果を発揮し、FIM変革への圧力として非常に強く機能しました。結果FIMはライダーたちの意見を飲むかたちで、1980年以降はライダーの賞金の大幅な増額、そしてコースの安全確保などに努力することになったのです。

画像: 1980年シーズン、ワールドシリーズ構想が潰えた結果、K.ロバーツはFIMグランプリの500ccクラスを走り、最高峰クラス3連覇の偉業を成し遂げることになりました。 www.yamaha-racing.com

1980年シーズン、ワールドシリーズ構想が潰えた結果、K.ロバーツはFIMグランプリの500ccクラスを走り、最高峰クラス3連覇の偉業を成し遂げることになりました。

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当時、次世代スター候補だったオーストラリア人のグレッグ ハンスフォードは、ワールドシリーズ構想に関わったことでキャリア的被害を被ったライダーのひとりといえるかもしれません。1980年にロバーツがワールドシリーズを走る場合、ヤマハはFIMグランプリの500ccクラスにハンスフォードを走らせることを考えていましたが、ワールドシリーズに賛同したハンスフォードはこの魅力的なオファーを断ってしまったのです・・・。

画像: グレッグ ハンスフォード(中央)は1978〜1981年という短いGPキャリアのなかで、250/350ccクラス通算10勝を記録。ヤマハのオファーを断りカワサキに残留したハンスフォードは、1980年シーズンのグランプリはKR500で一戦のみ出場。そして1981年ベルギーGPで大腿骨を骨折し、2輪のレースキャリアを終えることになりました。その後4輪に転向して活躍したハンスフォードですが、1995年のフィリップアイランドでのレースで事故死しています。 www.facebook.com

グレッグ ハンスフォード(中央)は1978〜1981年という短いGPキャリアのなかで、250/350ccクラス通算10勝を記録。ヤマハのオファーを断りカワサキに残留したハンスフォードは、1980年シーズンのグランプリはKR500で一戦のみ出場。そして1981年ベルギーGPで大腿骨を骨折し、2輪のレースキャリアを終えることになりました。その後4輪に転向して活躍したハンスフォードですが、1995年のフィリップアイランドでのレースで事故死しています。

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今では覚えていない、そして知らない人も多いであろう46年前のワールドシリーズ騒動は、グランプリの在り方を変えた大きな出来事でした。ライダーの待遇と安全性を改善し続けていくという流れは、今日のMotoGPにも受け継がれています。

文:宮﨑健太郎(ロレンス編集部)

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