写真:HIRO ARIMORI
宮城 光氏とのトークショーで語った当時の舞台裏

インタビュアーを務めた宮城 光氏とフレディ・スペンサー氏。
※以下、青いボックス内のコメントが宮城氏、本文がスぺンサー氏のコメントです。テキストはトークショーで語られたものを記事用に再編集したものとなりますこと、ご了承ください。
世界グランプリ参戦の前に、実は彼(スペンサー氏)は、アメリカのデイトナに参戦しています。3月のデイトナに参戦した彼は、NSR500、85年型で100マイルレース(フォーミュラ1クラス)に参戦し、RS250RWでもう1クラス(フォーミュラ2クラス)100マイルレースに参戦。そしてワークス仕様のVFR750Fでスーパーバイク200マイルに参戦して、3つとも優勝しています。
「自分にとって、デイトナのレースというのは、ルイジアナの小さい子供だった頃からの憧れで、デイトナ200マイルレースに勝つということは、自分にとって、アメリカのライダーにとって、やっぱり最高の栄誉であって、それを夢見ていたんです」
「しかも、それを勝つだけじゃなくて、3つとも勝てたんです。ここにあるバイクなんですけど、このマシンで250、500クラスを勝って、そしてスーパーバイクでデイトナ200マイルレースも勝ったんです」
「ちなみに、1984年はNSR500で200マイルレースを走ったんですけど、ちょっと速すぎて『これは良くないね』ということになって、NSRがデイトナ200マイルを走った最後の2ストGPマシンになるんですよ。(※1985年から200マイルレースはスーパーバイクで競われることとなった)」
デイトナのレースは、日本で言うと鈴鹿8耐みたいなもので、ライダーだったら絶対に走りたい、絶対に出たい、表彰台に上りたいし、勝ちたいのがデイトナ200マイルレースです。アメリカではテレビでオンタイムでやっているぐらいで、この200マイルレースは、彼が言った通り、子供の頃からの憧れのレースだったと思います。
「このときのデイトナのレースは、憧れはもちろんなんですけど、実はとても意味のある大事なレースだったんです。その理由のひとつが、デイトナのバンクを速いスピードでこなせて、それに耐えられることがバイクの開発にとって非常に大事で、これをちゃんとコントロールできるようになれば、2週間後に南アフリカで開催されるGPに向けてもなんとかなるだろう、というガイドラインでもあったのです」(※1985年型NSR500は南アフリカGPでWGPデビューを果たしている)
「もうひとつ、世界グランプリはヨーロッパでは人気でしたが、当時のアメリカではそんなに盛んではなかったので、ヤマハのケニー・ロバーツとホンダの僕とでアメリカの人たちに『僕たちがやっているレースってこういうものなんだよ』というのを見せるのに、とても貴重な機会だったんです」
世界グランプリにダブルエントリーする、というのは、いつごろ決まった話だったんですか?
「いつ決めたかというと、1984年・6月のオランダGPの時だったんです。ちょうどその時にV4エンジンにシリンダートラブルがあったんですけど、その際に『250と両方でやらないか?』とホンダに持ち掛けたんです。1973年にヤーノ・サーリネンが挑戦して達成できず、そして、ケニー・ロバーツも1978年に挑戦してできなかったことを達成したい、やってみないかと」
「そして、それ(2ラス参戦)に向けてマシンを1から開発していこう、ということになりました。自分がやりたいと言った時に、ホンダがそれをサポートしてくれて『やろう』と言ってくれたことに、今でも本当に感謝しています」

1985年型NSR500(NV0B)。デイトナにはHRCカラーのゼッケン「17」で参戦した。
大変苦労したと思いますが、不安はなかったですか?
「色々なトラブルもありましたし、もちろん不安はありましたが、2つのクラスに参戦してタイトルを狙おう、というアイデアそのものが素晴らしかった。難しい部分もたくさんあって課題も多かったですが、何より『(達成)できるんじゃないか』と、自分だけではなく、チームも信じてくれていました」
「夢を持って、それに挑戦するということがとても大事で、たとえ思うような結果が出なくても、それに挑戦したということに大きな意味があるので『やってみよう』という気持ちで挑みました」
素晴らしいチャレンジ精神ですね。でも、250と500、マシンの乗り味は大きく違いますよね。250でレースを走って帰ってきたときには、もう500のエンジンが暖気されていて、すぐにまたグリッドにつくわけです。 実際どうだったのですか?

1985年型RS250RW(NV1A)。デイトナにはゼッケン「116」のHRCカラーのマシンで参戦した。
「RS250RWはとても軽いんですよ。だからコーナースピードが非常に速く、描くコーナリングラインのアーク(弧)がすごく大きいんです。スピードをちゃんとキープすることがすごく難しい」
「やっぱり250と500を比べると、軽さが違います。そうすると、コーナリングのラインも違う。 ブレーキングも違う。 立ち上がりも違う。500と250の差には、すごく大きなものがありました」
「そんな中で、ウォームアップラップ、サイティングラップと、本当に調整する時間が全然ない中で、ワイン・ガードナーをはじめ、当時のトップライダーたち、本当にそうそうたるメンバーを相手に勝ち抜かないといけない。とにかく限られた時間で調整するというのがすごく重要な課題でした」
「ただ、自分は小さい頃からあらゆる種類のマシンに乗ってきたので、調整するということには優れていたから、多分それが勝利という結果につながったんじゃないかと思います」
ちなみに今車重の話が出ましたが、ゼッケン19番のRS250RWが車重90キロで、パワーが70PSだから、めちゃめちゃ速いんです。で、ゼッケン4番のNSR500が車重119キロで、馬力が140PS。250は圧倒的に車重が軽いですから、それを走行ラインにうまく乗せていくための作業には大きな違いがあったと思います。

当時のレザースーツと共に。スペンサー氏のツナギはナンカイ製だった。
(展示されているレザースーツを見ながら)1985年のハラマ、第2戦のスペインGPの練習走行でクラッシュしたんですよね。
「朝のウォームアップ走行でクラッシュしたんですが、実はその時点で手を骨折(※親指の骨にヒビ)していたんですよ。あと左足首も痛めていて」
「ただ、その時のスペインGPには本田宗一郎さんがゲストで来られていて、放送で質問されていたんです。『フレディがクラッシュして怪我をしたみたいだけど、レースはどうなる?』って。
それに対して本田さんは『勝つよ』と言っていて、僕もそれを聞いちゃったんですよね。骨折ってるのに(笑)」
「ボスに『勝つ』って言われたら、勝つしかない。 骨が折れていても勝つしかない。
『いや、しょうがないな』と。『これは出るしかないな』と思いました。それで優勝したわけです」
アメリカを離れて、ヨーロッパで12戦、グランプリを回っている中で、2クラスでレースに出て、すごくタフな日々が続いたわけですが、モチベーションをキープできた理由は何だったのですか?
「そもそもバイクの重量が(250と500で)全然違うということで、2台の異なるバイクをコントロールするのがすごく難しいんです。何より、昔はタイヤが今のように性能が良くなかったので、決勝の20ラップを走るときに、最後までいい性能で走れるかというと、そうではなかったんです」
「もう8ラップを超えてしまうとコントロールが難しくなってしまうような状況で、2つの異なるマシンをコントロールして戦うというのは、それぞれのバイクの習性がどんなものかをきちんと理解しながらやらないといけないので、本当に難しかったです」
「そんな難しいレースをヨーロッパでダブルタイトルを狙いながらやる中で、どうやって続けられたのかというと、やっぱり何よりもバイクに対して、レースに対しての情熱が一番大事でした。
レースは自分のためだけにやっているのではなくて、自分を支えてくれるみんなのため…メーカーの人たちだったり、チームのためでもあるのです」
「自分もやっぱり人間ですから、うまくいかない時だってあるし、250と500に乗る中で『ああ、今回は1クラスだけだったらいいのにな…』なんて思うこともありました。それでもなんで続けられたかというと、最後に行き着くところは、やっぱりレースが好きで、バイクが好きで、そしてみんなのために、情熱のために、自分が求めるものをやっぱり達成したいという強い気持ちがあったから、ヨーロッパという異国の地で頑張れたんだと思います」

会場を埋め尽くした、たくさんのファンに囲まれて。スペンサー氏はファンサービスにも非常に熱心で、来場者は大満足の1日となった。