構造のシンプルさ、製造のしやすさとコンパクトなサイズでの高出力もあって、やはり4ストロークよりも先に2ストロークが発展していった。1960年代のスタート、リードしたのはヤマハだった。
文:中村浩史/写真:モータマガジン社アーカイブス

2ストロークの黎明期(1950~1960年代)

日本初のレースを境に実用車がスポーツ車へ

日本で初めてのスポーツバイクって何だろう。スポーツバイクといえば、ライダーの意のままにコントロールができ、ゼロヨンタイムが速かったり、最高速度が高い、そしてサーキットのラップタイムが速いこと。

スポーツ性を競うのがレースだとしたら、日本初のレースは、1955年11月の全日本オートバイ耐久ロードレース、俗に「浅間高原レース」と呼ばれるものだ。このレースは、北軽井沢から浅間牧場、鬼押出しを走る未舗装路での公道レースで、ジャンピングスポットさえある、今でいうエンデューロに近いものだった。

このレースで上位入賞したのは、250ccクラスが丸正ライラック、ホンダドリームSA、新明和ポインター、モナーク、DSKといったモデルたち。そして125ccクラスはヤマハYA-1が上位を独占し、スズキコレダSTが続いた。350/350ccクラスは4ストマシンしかいなかったが、125ccクラスは、2ストマシンが1~7位を独占した。

このレースの開催を境に、日本のオートバイが実用からスポーツに舵を切りはじめる。1950年代、大小合わせて200以上もあったオートバイメーカーが徐々に数を減らしていったのは、この時期にスポーツ性向上のために研究開発をするだけの体力がなかったのが大きな要因と言われている。

そして、ホンダがスポーツバイクの証たる「CB」を最初に車名に与えたのが、1959年2月発売のCB92。正式名称はベンリイ CB92スーパースポーツだ。

さらに同じ年の9月には、ヤマハも初のスポーツバイクYDS1を発売。このあたりを「日本初のスポーツバイク」と呼んでよさそうだ。

ヤマハが二輪販売店向けに発行していた『ヤマハニュース』創刊号には「ヤマハがスポーツ車を出すからには、必ず国際的なスポーツ車、それも市販レーサーというよりは、ツーリング用のスポーツ車で、キットパーツを組み込んでスクランブラーにもスピードレーサーにも改造できるようにしたい」という記述がある。

ヤマハがYDS1を本格スポーツ車と決めた、なによりの証左である。

ヤマハ「YDS1」(1959年)

画像: ヤマハ「YDS1」(1959年)

開催を1か月後に控えた浅間クラブマンレースに出場できるように、と発表されたのが、最高出力18PSをマークした空冷2スト並列2気筒のYDS1。国産市販車初の5速ミッションはこのモデルから。

ホンダ「ベンリイ CB92スーパースポーツ」(1959年)

画像: ホンダ「ベンリイ CB92スーパースポーツ」(1959年)

4ストエンジンだが、同系エンジンを積んだC92をベースにパワーアップ。スタイリングも「どくろタンク」やフラットシートを与えられた「CB」ネーミングの第一号車。

スズキ「T20」(1965年)

画像: スズキ「T20」(1965年)

ヤマハ、ホンダに続いてスズキが発売したのはCB72より10kg軽量、リッター100PSをクリアした空冷2スト2気筒を搭載したT20。YDS1に対抗し、T20は6速ミッションを採用。ボア×ストロークは18年後にデビューするRG250Γと同一だ。

画像: 当時のカタログ。6速ミッション、ゼロヨンタイムをアピールしたT20。スズキ初のダブルクレードルフレーム。

当時のカタログ。6速ミッション、ゼロヨンタイムをアピールしたT20。スズキ初のダブルクレードルフレーム。

カワサキ「250A1」(1966年)

画像: カワサキ「250A1」(1966年)

輸出名を「サムライ」とした、カワサキの空冷2スト2気筒モデル。小排気量は2スト、250cc以上は4ストを使用していたカワサキの、初の本格的2スト250ccロードスポーツだった。具体的な開発目標は「世界最速」だ。

画像: どことなくWシリーズを思わせるルックスの250A1。アメリカ市場への戦略的モデルだった。

どことなくWシリーズを思わせるルックスの250A1。アメリカ市場への戦略的モデルだった。

文:中村浩史/写真:モータマガジン社アーカイブス

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