1950年代末の日本モータースポーツ黎明期から1990年代末まで、40年に渡り第一線で活躍し続けたレーシングライダーにしてレーシングドライバー。そして引退後もチーム監督などとしてレースに関わり続けた、日本のモータースポーツ史に燦然と輝く偉大なレジェンド、高橋国光さんが3月16日に逝去された。享年82。

浅間火山レースで頭角を現し、1961年に世界GP日本人初勝利を達成!

高橋国光さんは1940年東京生まれ。まだ鈴鹿サーキットが完成する以前の1958年〜1959年、当時の国内レース最高峰だった浅間火山レースで、BSAゴールドスターを操って圧倒的な速さを見せつけ頭角を現す。「天才少年現る」と騒がれ、瞬く間にホンダのワークスライダーに抜擢。

画像: 高橋国光さんの世界GP初勝利という快挙を報じる月刊オートバイ1961年7月号の誌面。左に写っているのは同レースで僅差の2位となった、同じくホンダのジム・レッドマン選手。

高橋国光さんの世界GP初勝利という快挙を報じる月刊オートバイ1961年7月号の誌面。左に写っているのは同レースで僅差の2位となった、同じくホンダのジム・レッドマン選手。

そして世界GPにデビューしたばかりの1961年5月には、ドイツのホッケンハイムで開催された世界GP第2戦・250ccクラスで、ホンダRC162を駆って日本人ライダーとして初めて世界GPで勝利するという、日本モータースポーツ史に残る快挙を達成。翌1962年には125ccクラスで開幕2連勝を記録したが、第3戦マン島TTで大クラッシュ、生命に関わるような重傷を負ってしまった。その影響もあって、翌年の1963年限りで若くしてレーシングライダーを引退することになる。

四輪レースに転向、1999年まで現役で走り続ける

画像: 1970年8月の全日本鈴鹿12時間自動車レース、都平健二選手と組んで出場した高橋国光さんが、スカイラインGT-Rで豪快にフルカウンターを決めている姿。このレースでは総合2位、T2クラス優勝を果たした。(モーターマガジン社・Skyline GT-R Story & History Volume.1 より)

1970年8月の全日本鈴鹿12時間自動車レース、都平健二選手と組んで出場した高橋国光さんが、スカイラインGT-Rで豪快にフルカウンターを決めている姿。このレースでは総合2位、T2クラス優勝を果たした。(モーターマガジン社・Skyline GT-R Story & History Volume.1 より)

しかし1964年には四輪レースに転じ、今度は日産のワークスドライバーとなった。その天性の速さは四輪レースでも変わることなく、5L、6Lという大排気量のレーシングスポーツカーを難なく乗りこなし、当時の国内4輪レースのビッグイベント「日本グランプリ」を沸かせた。そして当時のツーリングカーレースで圧倒的な速さを誇ったスカイラインGT-Rでも大活躍するなど、日本のトップドライバーとしての地位を固めていった。

画像: 1995年ル・マン24時間では、GT2クラスにNSX GT2で高橋国光/土屋圭市/飯田章というトリオで出走。総合8位、GT2クラス優勝という好結果を残した。(Photo/Honda)

1995年ル・マン24時間では、GT2クラスにNSX GT2で高橋国光/土屋圭市/飯田章というトリオで出走。総合8位、GT2クラス優勝という好結果を残した。(Photo/Honda)

オイルショックの影響による日産の活動縮小後は、全日本F2000〜F2〜F3000と続いた国内トップフォーミュラや富士GC、全日本耐久選手権や全日本ツーリングカー選手権といった国内レースの最高峰で、星野、中嶋といった後輩たちや、数多の外国人ドライバーたちを相手にトップドライバーとして戦い続けた。1977年にはスポット参戦ながらF1も経験し、1980年代からはル・マン24時間に何度も挑戦するなど、レースカテゴリーやマシンを問わず、幅広く活躍。

トップフォーミュラでの活動は1994年までだったが、入れ替わるように全日本GT選手権へ自らのチームであるチーム国光のドライバーとして、最高峰のGT1/GT500クラスに参戦。飯田章とのコンビでホンダNSXをドライブした1999年に富士で開催された第2戦では、なんと59歳にして総合優勝を達成している。

画像: 2020年のスーパーGTでのチーム国光は、最終戦の最終ラップでの劇的な逆転でタイトルを獲得。最終戦のレース後、山本尚貴、牧野任祐の2人のドライバーに挟まれ、ご満悦な高橋国光監督の姿。(Photo/井上雅行)

2020年のスーパーGTでのチーム国光は、最終戦の最終ラップでの劇的な逆転でタイトルを獲得。最終戦のレース後、山本尚貴、牧野任祐の2人のドライバーに挟まれ、ご満悦な高橋国光監督の姿。(Photo/井上雅行)

ドライバーとしては1999年限りで現役引退したが、それ以後は監督としてチーム国光を率い、全日本GT〜スーパーGTに参戦を継続していた。

画像: 2017年の鈴鹿ファン感謝デーでは、クラシックなツナギとヘルメットをまとい、往年のGPレーサー・ホンダRC142を駆ってデモ走行! 集まったレースファンを驚かせ、そして喜ばせた。(Photo/井上雅行)

2017年の鈴鹿ファン感謝デーでは、クラシックなツナギとヘルメットをまとい、往年のGPレーサー・ホンダRC142を駆ってデモ走行! 集まったレースファンを驚かせ、そして喜ばせた。(Photo/井上雅行)

また、長年日本のモータースポーツ発展に貢献した功績が認められ、2020年には文部科学省から「スポーツ功労者顕彰」を受けたことも記憶に新しい。

一方、気さくで飾らない人柄でも知られ、現役時代から「国さん」の愛称で、多くのレースファンやメディア関係者から親しまれていた。webオートバイも、謹んで高橋国光さんのご冥福をお祈り申し上げます。

文:小松信夫

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