レーサーレプリカを生み出すきっかけの1台

1970年代、オイルショックと米国の「マスキー法」による環境規制から2ストロークの存亡が脅かされていた。2ストローク技術を創業時から一貫して育んできたヤマハは、「最後の2ストローク」になるという想いと覚悟を胸に集大成モデルの開発を始める。

79年、東京モーターショーで「究極のロードスポーツ」と称しRZ250が発表されると、そのセンセーショナルなモデルはライダー達の心を掴んだ。圧倒的な市販化を支持する声に応えるべく、翌年8月、市販化をスタートさせた。

画像: レーサーレプリカを生み出すきっかけの1台

当時はレーサーレプリカという言葉は使われてなかったが、RZは市販レーサーTZ250の公道バージョンと言えるモデル。レーシングパーツすらも組み込みが可能だったほど「TZレプリカ」だった。

そんなモデルのデビューはあまりにも鮮烈だった。当時、富士スピードウェイでおこなった本誌テストによるとRZ250は最高速度で168・22 km/h、ゼロヨン13秒76をマーク。当時の400マルチ同等以上の数値だったのだ。そして、このクラスを凌駕するRZシリーズの大ヒットこそが、80年代のバイクの流れを決定づけた。最後だと言われた2ストロークはRZの誕生で息を吹き返し、ライバルメーカーも負けじと新世代2ストロークモデルを開発。ヤマハの想いはクォーターブームへの起爆剤となり、その後のレーサーレプリカブームの嚆矢となったのだ。

激動時代のRZシリーズの系譜

画像: 激動時代のRZシリーズの系譜

ミニサイズでも人気を博したRZ

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