坂田、現在ではMFJのロードレースアカデミー校長やレーシングインストラクター、さらにMotoGP(特にMoto3クラス)のTV解説者としてもおなじみ。言うまでもないことですが、軽量級のスペシャリストとして、1994年/1998年のGP125クラスの世界チャンピオンであり、現役ライダーとしては1999年を最後にWGPを退きました。それでもあの時、坂田は「ライダーを引退するわけじゃない」と引退ではないと強調していました。
その証拠に、WGPを退いて5年たった2004年と2005年には、突如として全日本選手権・筑波大会に出場。04年は多重クラッシュに巻き込まれたんじゃなかったかな、翌05年はノーマルマシン(この頃は2ストロークマシンRS125でした)で出場してポールポジションを獲得! 決勝では1周目の1コーナーで転倒しますが、再スタートを切ってファステストラップをマーク。そのレース、その復活劇は、全日本ロードレースの伝説(といっては大げさですが……)になっています。
というか、僕が坂田を知ったのは90年頃の話で、知り合いのショップのメカニックが、プライベート体制で走っていた坂田のことを「ノービス→ジュニア→国際A級と3年連続チャンピオン獲ったスゴいやつがいる」と言っていたのを聞いてからです。同い年だし、その後に月刊オートバイでもお仕事をお願いしたこともあったので、その後もちょっとだけ仲良くさせていただいているんです。
その坂田、突然の全日本復帰を知ったのは、偶然がきっかけでした。4月かな、バイク芸人でおなじみの福ちゃん(=チュートリアル 福田充徳さん)の練習走行に筑波サーキットにいつも一緒に行っているんですが、そこに坂田がいたんです。それもツナギ姿で!
坂田、現在はロードレースアカデミーの校長をしていますから、その流れで若いライダーのアドバイスやコーチをしに走っているんだな、と思ってたんです。
――坂田さん、どしたんすか、珍しいですね、と水を向けると
「まぁね、コーチだよ。セッティング見てあげてるんだ」と坂田。事実、前に福ちゃんのコーチしてもらったし、坂田が今でも速いのは承知の上。コーチ、マシンのセッティングのアドバイス、も普通に聞き流してしまっていたのです。
次に坂田が走っているのを見かけたのも、福ちゃんの走行に同行した時でした。けれど、コーチやセッティングを見ている、っていう割には、どうも様子が違う。坂田のピットはピリピリしていて、まるで実戦。なんだか、ピンときました。全日本の筑波大会が1か月後くらいで、これは……あるな、と。そして6月早々に「坂田和人 全日本選手権へのスポット参戦のお知らせ」というリリースが出されるのです。
坂田は現在、ハルクプロをスポンサードしているMuSASHi(武蔵精密工業)スカラシップの校長でもあります。その両者をサポートする昭和電機が背中を押す形で、坂田の全日本スポット参戦が決まったのです。
出場のきっかけは、坂田の親友であり後輩のお子さんや知人がアカデミーに参加していて、坂田のレースの進め方、レースに臨む姿を見せてあげたい、と言い始めたのがきっかけ。その話を聞いて、昭和電機の柏木社長がサポートしてくれることになったのが始まりです。
2timesワールドチャンピオンの実際に戦う姿――坂田が2度目のチャンピオンを獲ったのは98年なので20年前、いまスカラシップを受けている子どもたちは、当然リアルタイムでは知らないはず。それどころか、坂田の同期、同世代のライダーたちのお子さんが、いま走っているという状況での闘魂伝承ですね。
「ライダーを引退したわけじゃない、っていつも言ってるけど、どこまで出来るのかなんてわかんない。現実は甘くないよ、きちんと乗ったことがないマシンなんだから」と坂田。
そうなんです、今の軽量級クラスといえばMoto3クラス、全日本でいえばJ-GP3クラス。つまり4ストロークマシン。坂田が現役時代に走ったのはホンダが4年、アプリリアが5年。もちろん、両方とも2ストロークマシンです。
「4ストのレーシングマシンでレースしたこともないんだから、予選だって通らないかもしれないし、タイムなんかどれくらい行くか、想像もつかない。レースに出るなら自分が納得するレベルまで仕上がらなきゃイヤだし、メカニックやセッティングツールとか、きちんとした体制も必要。そうじゃなきゃレースには出ないかもしれないよ。予選だけ走って、タイムが出なかったら、マシンを仕上げられなかったら決勝は走らない。わがままだけど、そういう状況でもいい、って柏木社長は無条件でサポートを約束してくれた」と坂田。
何位くらいを目指すんですか、なんて野暮なことを聞けるわけがありません。坂田は優勝を狙っている、そういう人です。スポーツ選手、特にライダーは負けず嫌いの集まりですが、坂田はその中でも究極の負けず嫌い。勝てる可能性がなければ出ない、そう言いだしても不思議ではないんです。
それから何度か、限られた走行を経て、坂田は筑波大会の事前テストに参加します。参戦チーム名は「Mistresa MuSASHi sc./TC」。ミストレーサは昭和電機の商品名、ムサシscはムサシスカラシップのこと、TCとは筑波サーキットのことです。
しかし6月の事前テストで、坂田は転倒。ウェット走行で3番手タイムをマークしながら、ウェットのフィーリングがよかったことから、もう少しタイムアップを、と走ったところ、最終コーナーで転倒。左手を打ちつけ、股関節のじん帯を伸ばしてしまう重症を負ってしまいました。歩くのもつらそうにマシンチェック、セットアップを仕上げるために走り続ける姿を、スカラシップやアカデミーの生徒さんたちは見ていたかもしれません。
「サスペンションのセッティングがぜんぜん決まらない。サスペンションのセットどころか、車高、車体姿勢、前後バランスもゼロから決めなきゃならないし、4ストマシンだからエンジンブレーキだってずっと慣れていない。このままじゃレースは出ないかもね」
けれどその頃は「坂田参戦」が大ニュースになっていて、筑波大会の注目度もぐんぐん上昇。いくらなんでもここまで騒ぎになっているのに出ないなんて……と多くの人は考えたでしょうが、坂田は本気です。納得できなきゃ出ない、そういう人なんです。
レースウィークに入って、金曜は合同走行。ここで坂田は痛む足を引きずりながら走行。ここで坂田は1分01秒台前半をマークし、とても初マシンでの13年ぶりのスポット参戦とは思えないタイムを出していました。それでも、レース前には「最低でも00秒台前半で周回するくらいにはならないと……」と言っていましたから、まだまだ納得はいっていないようでした。
サーキット入りしてレースが近くなるとどんどん怖くなる坂田。このオーラ、本当に現役時代そのものです。古くからのジャーナリストほど、レースウィークの坂田には近寄らない(笑)。
「まわりはイケるイケるって言ってくれるけど、なにを見てそう言ってるんだか。自分がどう走ってて、あれをこう変えてどれくらいタイムが上がるかどうかなんてオレがいちばんわかってるんだから、これ以上でもこれ以下でもないよ」
坂田のblogには「あした(の予選で)は周りのライダーがタイムを上げて私のタイムは変わらず、で順位を落とすでしょう。手前味噌ですが、日テレの(Moto3)解説でも予測は外さない方です。いい報告ができなくて申し訳ございません」と記しています。いちばん冷静に現実を見ているのが坂田だったのでしょう。
土曜の公式予選、坂田は1分01秒193のタイムで9番グリッドを獲得。30ライダー中の9位、それはそれでモノスゴい成績で、坂田よりタイムの遅い21人はなにしとるんだ、って話ですが、坂田の予想通り、タイムは01秒台前半。練習でのベストタイムは1分00秒6。けれど、周回タイムとしては事前テストの後半から、ずっと01秒台あたりをキープしています。
坂田が「最低でも」と言っていた00秒台前半ラップには入らないまま、決勝レースを迎えてしまったのです。ちなみに予選で00秒台を出しているのは、この予選で5人。つまり5位あたりが、坂田が自分に課した「合格ライン」なのでしょう。
決勝レースへは、現状での出走はいろいろな葛藤があったのでしょうが、出場を決意。そこには、ハルクプロの本田重樹会長の「レース1を走ってみて、その結果を踏まえてレース2のことを考えたらどうだ?」というアドバイスもあったようです。
そして決勝レースでは20周を走って10位フィニッシュ。レース中は、レース2で優勝することになる、開幕戦ウィナーの岡谷雄太(18)を追いかけまわしていました。これだってすごいことなんですが、きっと坂田はこのあたりの順位だ、ということをわかっていたのでしょう。
明けて日曜のレース2は、予選でマークした自己2番目のタイムによって決まるグリッドで、レース1の9番グリッドから下がっての13番グリッド。しかし、ここで坂田はレース1とは違った走りをみせることになります。
13番グリッドからスタートした坂田は、オープニングラップでジャンプアップして8番手まで浮上すると、なんとトップグループすぐ後ろの5番手争いにポジションを取り、レース1でペースが下がり始めたレース中盤をクリアし、まわりのライダーのペースが落ちるころを耐え、集団を抜け出してポジションもキープ。
レース中盤までトップ争いが見える位置を走って、最終的に5位でフィニッシュしたのです。レース中盤、だんだん単独走行になっていく坂田を見て、ちょっと鼻がツーン、としてしまいました。がんばって、何事もないように、転ぶな、走り切って! 同い年のおじさんとして何かの琴線に触れちゃったのかな、写真撮りながら、ブツブツつぶやいていました。涙は出る寸前で耐えられました。
「リアサスをノーマルからオーリンズに換えて出たんだ。というのも、ノーマルサスとアップマフラーの組み合わせでは、リアサスの温度が上がりすぎちゃって、サスが機能しなくなる。それでもサスの換えも前もって準備できなかったから、日曜の朝フリーで交換できた。それが少し良かったんだね。セッティングも変えて、ちょっとはマシになったけど、現状それが精いっぱい。抜き合いもできたし、昨日よりはレースらしいレースになったんじゃない? 現状では精いっぱいできたかな」
そっけないコメントではありますが、表情はやり切った感も出ていてちょっとは近づける雰囲気(笑)。まずは無事に走り切れてよかった。取材者としてではなく、友人としてそう思ったのです。
レースは、10位/5位で終了。それでも坂田は、この順位ではなく、レース2の5周目にマークしたこの一連のベストタイム「1分01秒241」に納得いっていないようでした。00秒台前半で周回、というレベルにも達しませんしたからね。それでも坂田は、きちんと仕事を遂行して土曜も日曜も、Moto3オランダGP解説に、日本テレビまで往復したのでした。
え、土曜日のレース終わって日テレ行ってたの?と聞くと、そうだよ、ちょっと睡眠不足だったけどね、とサラッと。なんかあったらどうしたつもりなんだろう……、おそらく坂田は、ここまですべて予想したうえで、レース参戦を決めたのでしょう。
いまある材料でベストを尽くすこと、レースウィークに最大限の緊張感を持ち続けること、最後の最後までセッティングを詰めることに努力して、自分の現状をきちんと把握すること――それが坂田から若い人へ伝えたかったこと、それは自然に伝わったことでしょう。
実は坂田、この数か月きっちりトレーニングを重ねていて、体重も絞って、絞りすぎちゃったらしく、レース日には49kgしかなかったそう! ヘルメットやツナギの装具込みでも58kg、マシンを合わせての最低重量を下回ってしまって、ガソリンを多く積んでのレースだったそうです。カウルは2セットしかなく、マシンもホイールも借り物、リアサスだって借り物。よくそんな状況で……。それも、聞き出さない限り、自分でまわりに言うこともありません。坂田のことを「天才」と言う人はいますが、やはり天才は努力の上に成り立つものなんですね。
この筑波大会、若い力に押されつつも、J-GP3/J-GP2/ST600クラスで、J-GP3では小室旭(41)と古市右京(45)が、J-GP2では関口太郎(42)が、そしてST600では小山知良(35)が20歳代そこそこのライダーたちの高い壁となりました。
「坂田さんの走り、凄かった。当たり前のことなんだけど、レースの進め方、レース中の走り、すべて勉強になったし、マシンのそばにいるだけで、ものすごいオーラが出てた。見習うことばっかりです」とは、J-GP2クラスのレース2で1年半ぶりの優勝をあげた関口太郎。坂田のスピリットは、若手だけではなく、ベテランにも通じたようでした。
「レース2では手ごたえを感じたから、もっとこうすればよかった、こっちの進め方できていればなぁ、って思うよ。あーあ、レース3があったら、もっといい走りができてたのにな」
やっぱり坂田は、究極の負けず嫌いでした。
写真・文/中村浩史