鈴鹿4耐にスズキGSX400Eで挑戦!
バイクショップ「モーターサイクルドクターSUDA」の総代である須田高正さんには、世間をアッと言わせたエピソードがいくつもある。その中でも1980年と81年の、2年にわたる鈴鹿4時間耐久レースでの出来事は、本当に尋常ではない。須田さんは、このレースにスズキGSX400Eで挑戦した。このモデルのエンジンはDОHC4バルブの空冷2気筒で、チューニングパーツなど何ひとつ用意されていない。
同じ市販車でもエンジンだけ見れば、発売されて間もないカワサキZ400FXはDОHCヘッド(2バルブだったが)の空冷4気筒で、こちらの方が分がありそうに見えるのだが、須田さんは2気筒のスズキを選んだ。しかも、この当時のレギュレーションでは、2ストの市販レーサー、ヤマハTZ250での出走も可能だったから、同じ土俵で闘うなら、あまりいいことはなさそうである。
ところがこのGSX400Eは、2ストのTZや4スト4気筒勢を差し置いて、予選でポールポジションを奪ってしまう。ライダーは女流バイクジャーナリストの、堀ひろ子さんだ。女性ライダーがMFJのレースイベントに正式に参加できるようになったのは77年のことだから、これには世間が騒然となった。須田さんは述懐する。
「何せ2気筒でしょ? マフラーだって2本出しで、ちっとも速そうに見えないんだよ。キャブだってノーマルの負圧式CVだし、メインジェットしかいじるところないのね。それでも堀さんが乗ってポール奪っちゃった。こっちもアレアレ? なんだよ」
ところが、この2気筒エンジンには須田さんの独自のアイディアがあった。カムシャフトこそヨシムラのST-1を入れてはいるが、あとは徹底したフリクションロスの低減くらいで、ほぼノーマル状態なのだが、ポイントはバルブスプリングにあった。
「カムシャフトと吸排気バルブのフリクションって、バカにならないんだよ。これでパワーをだいぶ食われちゃう。これをできるだけ少なくするためには、バルブスプリングは柔らかい方がいいと思ったんだ。これは吸入効率を上げるのが目的じゃないんだよね。定番はハイカムと強化スプリングだったけど、あえて逆をやってみたの」
説明すると、4ストエンジンは排気量を変えずに高出力を得ようとすれば、できるだけ高回転まで回すことが必須となる。ところがあまりにも高回転になると、吸排気バルブが追随することができずに、サージング(バルブジャンプとも言う)を起こしてしまう。これは吸排気バルブとピストンが衝突するという、最悪のケースにもつながる。これが起これば間違いなくエンジンブローだ。
だから、これに対処するためレース用とされるバルブスプリングは、サージングを起こしにくいように通常より固めのものが用意される。さらにF1やモトGPでは、バルブ作動にメカニカルスプリングを使わず、高圧の窒素ガスを使用する、いわゆるニューマチックバルブが採用されるのも、サージング対策だ。ついでに言っておくと、このシステムがルノーによって導入されたのは、F1がV型10気筒時代だったときに1万8000〜2万回転も回していたことによる。
ところが楕円ピストン8バルブで2万回転を達成していたホンダの世界GPマシンNRや、60年代に50㏄の2気筒で2万1500回転まで回った世界GPマシンRC116は、時代もあるがニューマチックではない。意外にメカニカルスプリングは頑張るのだ。
「分度器」がチューニングパーツ?
そこで須田さんは柔らか目のスプリングを捜すのだが、そんなものはどこにもない。
「だからね。使い古したスプリングを捜したんだよ。こんなことって、誰も考えないよね(笑)。で、次に大事なのがバルブをいつ開いて閉じるかの、バルブタイミングをどうするかってこと」
ここで須田さんは文房具屋に向かう。手に入れたのは学校の算数の授業で使う、分度器だ。これを2つ組み合わせ、中心にクランクシャフトを嵌めこめる大きな穴を開けた。
「いま考えると笑っちゃうよね」
須田さんは屈託なく笑う。そしてピストンとバルブが衝突してしまわないように、ピストンヘッドに設けられたバルブの「逃げ」を広げるため、ボール盤で加工する。ところがこのバルブの「逃げ」はピストンの四隅に斜めに設けられているから、垂直に降りるボール盤のバイト(歯)が、ちゃんと当たるわけがない。そこで、そのための治具を手づくりで拵(こしら)えた。
「吸気で2つ、排気で2つあるでしょ? 4つともうまく加工するのはタイヘンでね。最後のひとつで失敗したなんてのが、ゴロゴロあったよ」
決勝レースでは、須田さんに一抹の不安があった。それはライダーの堀さんが持ってきたCОNI(コニ)のリアショックだった。
「彼女が見つけてきたスポンサーでね。使わないわけに行かなかったんだけど、これがえらく固いんだ。手で床に押し当てても全然動かないくらい。でも予選は路面がドライだったから、何とか動いていたんだね」
レースはまさかの展開で大炎上!
ところが決勝日は前夜に降った雨で、路面にウエットパッチが残った。ポールから勢いよく飛び出したGSX400Eだったが、後続のグループが第1コーナーでクラッシュ。ここで転倒したマシンがこぼしたオイルが、水の浮いた第1コーナーに広がる。2ラップ目にかかったGSX400Eには、この路面を攻略する術がなかった。瞬間的にリアがスライドしてスリップ転倒した堀さんには、怪我こそなかったものの、マシンは樹脂製タンクが裂け、炎上してしまう。大惨事である。
須田さんにメゲる様子はない。そればかりか翌81年、黒コゲになったGSX400Eを修復し、これを含めた3台体制で挑戦することを決意する。公募された6人のライダーたちによって操られた3台のGSX400Eは、前年と寸分変わらぬ速さを発揮し、初戦で見せたように、ストレートでTZ250を抜き去るトップスピードを見せつけた。4スト2気筒サウンドが、カン高い2ストサウンドで疾走する市販レーサーを抜き去っていくのだ。観客がどよめかないはずがない。そして何と1、2、3位でゴールし、F3クラスのポディウムを独占するという前代未聞の快挙を成し遂げてしまった。
おさまらないのは他チームで「このGSX400Eは排気量が400㏄じゃなくて、450㏄なのでは? いや、あの速さは500㏄だろう」といったクレームが出された。入賞した3台はエンジン分解による審査を受けることになり、燃焼室容積がノギスで測定された。結果、すべて400㏄であったことが証明され、疑惑は晴らされた。これは同時に須田さんの、尋常ではない技術の高さを証明することにもなった。
「クレームをつけた連中の、え〜!? 400㏄だってよ〜!? というボヤキ声は、まだ耳に残っているね」須田さんは遠くを見つめるような目で、笑いながら言った。
徹底したフリクションロスの低減と、吸排気バルブのオーバーラップをどう設定するかといった地道な努力は、すべて手づくりで行なわれた。この技術と努力が95年、アメリカのユタ州ソルトレイク、ボンネビルで行なわれる最高速度チャレンジに須田さんを駆り立てるのだが、この話はまた機会があれば紹介しよう。
PROFILE
須田さんとボク。MFJ全日本プロダクションに参戦していたころ、須田さんのアドバイスでボクのマシンは確実な速さを身に付けた。参戦1年目でチャンピオンが奪れたのは、この助言によるところが大きい。今でも足を向けて寝られない御仁なのである。