オートバイ界にとっての1980年代とは現在につながる技術的要件が一気に実用化へと歩を進めた時代だった。水冷エンジン、カウリング、アルミフレーム、キャストホイールにラジアルタイヤ──。その80年代の扉を力強く開け放ったのがヤマハが「最後の2ストローク」として開発した2ストスーパースポーツ、RZ250。発売日は80年8月5日。オートバイ界の1980年代は、この日に幕を開けた。
文:中村浩史/写真:森 浩輔

メインマーケットのアメリカでクリーン&省エネが進み始める

画像: YAMAHA RZ250 1980年 総排気量:247cc エンジン形式:水冷2ストピストンリードバルブ並列2気筒 最高出力:25.7kW(35.0PS)/ 8000rpm 最大トルク:29.4N・m(3.0kgf-m)/ 8000rpm 当時価格:35万4000円

YAMAHA RZ250
1980年

総排気量:247cc
エンジン形式:水冷2ストピストンリードバルブ並列2気筒
最高出力:25.7kW(35.0PS)/ 8000rpm
最大トルク:29.4N・m(3.0kgf-m)/ 8000rpm

当時価格:35万4000円

ホンダの第一号車である「A型」デビューは1947年。スズキが52年にパワーフリー号、ヤマハは1955年にYA-1を発売し、カワサキは前身のメグロがZ97を37年に発売。この頃、まだ陸王も富士工業もトーハツもあった国産車メーカー事情を考えると、国産オートバイの「創世記」は昭和30年代──1950~60年代だろうか。

オートバイの開発製造技術や性能が安定し始めて、60年代には次々と名車が生まれ始める。60年にホンダCB72、65年にはカワサキメグロK2、68年にヤマハDT-1、69年にはナナハンことCB750FOUR、カワサキマッハ500SSがデビュー。この時期は70年代に向かって、大排気量、高出力がどんどん進んでいた頃だ。

60年代のオートバイといえば、アメリカをメインメーケットとして国内生産から海外輸出の販売台数をどんどん増やしていた頃。カワサキの250A1「サムライ」やヤマハRD400「デイトナ」、そしてホンダCBナナハンは、アメリカで圧倒的人気を持って迎え入れられたモデルだった。

そのアメリカで起こった歴史的事件。それが70年12月に制定された、大気汚染防止のための「マスキー法」。それは、自動車やオートバイの排気ガスを規制する法律で「75年以降に製造する自動車は一酸化炭素/炭化水素/窒素化合物の排出量をそれまでの1/10とする」という、実現不可能とも思えるような、突拍子もないものだった。

マスキー法は、規制をクリアしないものについては期限以降の販売を認めないという厳しいものだったが、実際には厳しすぎる規制値に製造者からの反発も激しく、74年に廃案。

しかし、73年10月に勃発した第四次中東戦争から「石油危機」と呼ばれる不景気も巻き起こったこともあって、日本やアメリカをはじめとした先進国が、大気汚染防止や省エネルギーへの意識を高めていた時期だったのだ。

エネルギー問題と大気汚染問題。オートバイでやり玉にあげられたのは2ストロークエンジンだ。高性能だけれど、ガソリンとオイルを混合して燃やし、白煙をまき散らす、とまでイメージが悪くなった2ストロークに代わって、アメリカをはじめとしたマーケットの需要は急速に4ストロークにシフト。徐々に2ストロークの姿が消えていく。

これが最後の2ストロークだ。本物の2ストローク、胸のすくような走りを味わえるモデルをもう一度──ヤマハRZが誕生へ向けて動きだす。

80年代を疾走り続けたレーサーレプリカたち

1970年代終盤のヤマハは、4ストのTXやXSを開発すると同時に、それまでのヒットモデルRDに様々なデバイスを加え、なんとか規制をクリアする2ストエンジンを作り続けていた。しかしそれは、2ストらしい、あの胸のすくような加速感など望めない「牙を抜かれた2スト」でしかなかった。

こうしてスタートした「最後の2スト」開発プロジェクト。ヤマハは世界中のサーキットで育てられた2ストレーシングマシンTZの技術を市販モデルに投入。250ccモデルにそれまで例のなかった「水冷」方式の採用を決める。

画像1: 80年代を疾走り続けたレーサーレプリカたち

排気ガス浄化のために徹底的に燃焼効率を見直し、熱対策、騒音対策にも有効な水冷エンジン、CDI点火、燃料とエンジンオイルの分離給油も採用し、出力なんとリッターあたり140PSにも相当する35PSをマーク! すでに下火になり始めていた2ストエンジンに、再び存続の可能性を示した画期的なモデルを生み出すことになる。

それが、80年に発売が開始されたRZ250だ。TZ譲りのモノクロスサスペンションを採用し、当時ほとんど見ることのなかった水冷エンジン、チャンバー型マフラーやバックステップを装備し「TZの市販バージョン」とまで言われたRZは瞬く間に大ヒット! レーサーレプリカという言葉が使われ始めたのも、RZ発売の頃だ。

画像: ▲2ストロークエンジンとともに、RZ250で画期的だった、空飛ぶサスペンションこと、モトクロッサーで培った、車体中央を貫くモノクロスサスペンション。

▲2ストロークエンジンとともに、RZ250で画期的だった、空飛ぶサスペンションこと、モトクロッサーで培った、車体中央を貫くモノクロスサスペンション。

発売前からバックオーダーが入る、カラーは何でもいいから納車してほしい、ヤマハ販売店はRZの納車をこなすためにヤマハの他モデルも発注するというように、RZの勢いに乗せられてRZブームやヤマハブームさえ生んでしまうほどの大人気だった。

そしてRZはライバルメーカーを奮起させることになり、ホンダが82年にVT250Fを、83年にはMVX250Fを発売。同じく83年にはスズキがRG250Γをデビューさせると、あとはもうライバルがライバルを生む「レーサーレプリカウォーズ」が勃発。

画像2: 80年代を疾走り続けたレーサーレプリカたち

ヤマハがRZに代わるブランニューモデルTZR250を発売すると、NS250Rを発売していたホンダはNSR250Rを発売し、遅ればせながら2スト市場に参入したカワサキもKR250からKR-1を、そしてスズキがRG250ΓをRGV250Γへと進化させる──これが80年から90年代初頭までの大きな流れになっていく。

2スト250ccはやがて4スト400cc、250cc、そして750ccへと飛び火。これがレーサーレプリカブームと呼ばれたムーブメントだった。

現代の常識は80年代に生まれた最新技術

2スト250ccからスタートしたレーサーレプリカブームが次々と他カテゴリーにも波及し、空前のブームが巻き起こった80年代。激戦区250/400ccクラスは、毎年のようにニューモデルが生まれ、バイクのパフォーマンスも飛躍的に向上し続けた。

80年のRZ250が水冷エンジンに先鞭をつけると、RG250Γがアルミフレームやフルカウルを採用し、レーシングマシンで流行した16インチホイールやラジアルタイヤも市販モデルに次々と採用されるようになる。

画像: 現代の常識は80年代に生まれた最新技術

中には本格実用には至らなかったターボや6気筒、ディーゼルエンジンのような新しい技術も、この期間に誕生、市販車に採用された技術だ。水冷4スト並列4気筒DOHC4バルブ、トリプルディスク、アルミフレームにアルミスイングアーム、ラジアルタイヤにフルカウル、倒立フロントフォークやモノサス──現在では当たり前の最強装備は、ほとんど80年代に生まれ、実用化されたものだと言っていい。

そして1990年代。あまりにも先鋭化してしまった市販モデルへのカウンターで、性能を求めすぎないスタンダードなバイクが待ち望まれるのだ。

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