ホンダの二輪車国内販社・ホンダモーターサイクルジャパン(HMJ)は6月末、新社長に室岡克博氏(56)を迎え入れた。組織運営には人生観や仕事での経験、教訓などが大きく関わる。本紙では室岡社長に、これまでの経歴や経験、教訓などについて取材、3回にわたり掲載する。
文:二輪車新聞 編集部
 
※この記事は、『二輪車新聞』の公式ウェブサイトで2020年9月25日に公開されたものを転載しております。
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株式会社ホンダモーターサイクルジャパン
室岡克博社長

──経歴をお聞かせください。

「大学では法学部でした。父が司法書士事務所を池袋に開業しており、当時、長男の私が継がなくてはならないのかと思っていました。ただ仕事柄、継いだ場合、一生地元を出ることなく一人で仕事することになり、逆に、より広い世界でより多くの人と働きたい、親父とは違ったことをやりたいとも思っていました。大学の先輩がたまたま本田技研工業(以後ホンダ)の汎用機(現ライフクリエーション)部門に在籍しており、彼のホンダなら海外で働けるぞの言葉に誘われ、1987年にホンダに入社しました。

汎用機部門は希望者が少ないので、海外勤務希望が叶うチャンスだと思いました。配属先の希望には汎用機の海外営業を希望。研修後の面接では汎用機部門の希望は、あなたが初めてだ。面白い。行かせてやるよと面接官に言われました」

──実際の配属先は。

「熊本製作所(工場)、それも総務部が始まりで、希望とは程遠く当初の目論見が外れました。配属希望とは違うことからモチベーションは下がりました。そうした姿勢を見事に見抜かれ、2年半が経過したある日、課長に君には総務としての適性がないと判断したと告げられました。

その後、工場管理課へ異動になり、当初は部品を生産ラインに供給する業務、次に部品を海外へ発送する業務の担当となりました。ただ当時係長だった方が辛抱強く私を指導してくれて、どんな仕事にも改善の余地がある。単純作業にするかしないかは自分次第だと事象のデータ化、要因分析、源流改善のプロセスを教えてくれました。私は自分でまとめた改善レポートを毎月発信するようになりました」

思い知らされた“現場主義の大切さ”

──熊本製作所で働いた期間はいつまで。

「27歳で同製作所の海外事業課に異動になりました。私のレポートを見ていた方が引っ張ってくれて、中国担当のプロジェクトメンバーに任命されました。プロジェクトの内容は、タイで生産販売しているスーパーカブタイプの二輪車の図面と部品を中国洛陽のある企業に供給し、製造組立てを支援するというものです。

念願の初海外出張先はタイでした。日本から持ち込んだ図面と現地の部品を一点一点確認したところいくつかの相違点が見つかりました。現地で調達しやすい部品に変更されていたのですね。

私はタイの社長に結果を報告し、このままでは中国へは部品を送れないため、図面どおりに再度造ってもらうお願いをしました。私は当然のことと思っていましたが、タイの社長に造り直してコストアップしたら、お前に事業責任が取れるのかと言われ、返す言葉もなかったことを覚えています。

結果的には図面と部品を一致させて中国に供給することができましたが、現実のビジネスは形どおりの話だけではないこと現場主義の大切さを思い知らされました。

次は、中国での製造のために溶接冶具を導入するべく、熊本製作所の溶接技術者と洛陽の工場へ行った時のことです。導入も無事終わり、最後の晩餐会で中国人スタッフたちは乾杯の攻勢を仕掛けてきました。私はしたたかに酔っぱらってしまいましたが、酒の強いその技術者は逆に中国人スタッフ全員を潰してしまったのです。以後、中国人スタッフたちはその技術者を大先生と呼び、その後の支援業務は驚くほど順調に進みました。

一方、私は若気の至りで、人の気持ちも顧みず正論ばかり主張し、時の上司にも無理難題ばかり言っていました。しかし、私が朝霞の研究所へ異動が決まった時に、その上司の方が家族ぐるみで送別会を開いてくれ自分を信じて頑張れよと言ってくれました。

非常に人間味があり、思えば多くの人たちから慕われていた方でした。組織は様々な個性を持つ人が集まって成り立っており、正論だけで仕事は回らないということを教えられました」

──朝霞研究所での仕事は。

「異動は29歳の時。二輪車の営業や開発が集結するディベロップメント・オペレーショングループで、国内需要創出検討チームの事務局担当でした。全国の二輪車普及率の高い県を回り市場調査をするチームの予算管理に携わりました。

ホンダはもはや日本人だけの会社ではない

その後31歳の時に、シンガポールにあるアジア地域の研究所であるホンダR&Dサウスイーストエイジア(HRS)に駐在することができました。役割は総務・会計担当。ここで熊本での総務の経験、朝霞での予算管理の経験が活きることになりました。

シンガポールでは、ある意味日本人よりも優秀な現地従業員たちが、ホンダへのロイヤリティを高く持ち、一生懸命働いていたことに非常に驚きました。ホンダはもはや日本人だけの会社ではない。私は今まで多くの先輩たちに助けられ、教えられ、ホンダで働く喜びを感じていました。その喜びを是非この海外の従業員たちにも感じてもらいたい。それが今に至る私のモチベーションの源泉になっています」

──シンガポールの他に、海外勤務は。

「その後、タイの事務所を現地法人化し、現地開発を立ち上げる仕事に携わりました。当時、市場に近いところで開発し、現地ニーズを反映した商品を素早く提供するという考えの下、ホンダは開発プロセスの現地化を進めていました。タイでの法人化の後は、インドネシアでも事務所を開設し、物件探し、現地従業員採用などの仕事をしました。

ジャカルタに事務所を開設した時のことは今でも忘れられません。オープニングの式典開催の当日、運悪くジャカルタ市内で暴動が勃発し、我々のいる式典開催予定のホテルが暴徒に取り囲まれてしまいました。

翌日の午前3時頃に、雇ったばかりのスタッフがドライバーと共にホテルに来て今なら暴徒が寝静まっている、空港まで行けるチャンスだと教えてくれて、まず私が一人で脱出することになりました。料金所が破壊され、あちこちで火の手が上がる高速道路を走り抜け空港に着き、なんとかシンガポールに渡り、残った同僚らの航空券の手配などを行い、その後皆シンガポールに脱出させることができました。日本で仕事をしている限り、命に関わるほどの危険にはめったに遭遇しませんが、海外での仕事はこんなリスクもあるのだと身に染みました」

──海外で現地スタッフを育成し、確実な業務を遂行してもらうには苦労も多いのでは。

「日本とは違う人事・給与体系、業務の与え方をしなければなりません。日本では曖昧にされている様々な条件を明確に提示しなければ彼らは納得しない。ジョブディスクリプション、評価の基準、キャリアステップなどです。それらを整備し従業員の信頼を得ていきました。

しかし大事なことがもう一つあります。意思決定の在り方です。例えば海外においても日本人は日本人同士で全てを決めてしまう。これをされると現地従業員は蚊帳の外に置かれ疎外感を感じるものです。当時の私の上司である現地法人の社長は特に保守的な方で、それがホンダの在り方であるという認識をされていました。実際、当時何人かの優秀な現地従業員が辞めていきました。

ある時、業務監査があり、日本からベテランの社内監査人がいらっしゃいました。私はその方にこの実態について相談をしました。監査人は否定することも肯定することもなく室岡君、私はこの年になるまで多くの人を見てきた。『この人は優秀だ、人柄も良い、将来絶対に偉くなる』と思われている人が残念ながら偉くならない。逆に『この人が?』と思われている人が偉くなったりする。でもそれが会社なんだよと語られました。

決して悲観しているのではなく、それが当然の摂理のように。私はここでも組織、会社というものの在り方を考えさせられました」(続く)

文:二輪車新聞 編集部
 
※この記事は、『二輪車新聞』の公式ウェブサイトで2020年9月25日に公開されたものを転載しております。

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