世界中でたくさんのライダーの頭を、命を守るヘルメット。
その世界的ブランドであるアライヘルメット代表、新井理夫社長がFIMからゴールドメダルの授与をうけた。
アライヘルメットは、今までも、これからも頑固にライダーの命を救う装具であり続ける!
文:中村浩史/写真:南 孝幸

アライヘルメット代表
新井理夫氏 (あらい みちお)

1938年(昭和13年)東京・京橋生まれ。慶応大学を卒業し、インディアナ工科大に留学。アライヘルメットの前身「新井帽子店」創業は明治35年で、新井広武商店を経て、昭和51年に新井ヘルメットを設立、昭和61年にアライヘルメットに改称、現在に至る。

新井理夫さんは2代目社長で「いつの間にか父(新井広武さん)の仕事を手伝うようになったんだ」のだという。現在81歳、まだまだ最先端の安全を追求し続けている。

画像1: 【インタビュー】アライヘルメット代表・新井理夫「ひとりだって死なないで ヘルメットに飾りなんか要らないんだ」

ライダー用装具メーカーで初のFIMゴールドメダル

画像: 2019年11月末、モナコ・モンテカルロで行なわれた「2019FIMアワードセレモニー」に出席。FIM会長、ホルヘ・ビエガスからゴールドメダルを授与される新井社長。

2019年11月末、モナコ・モンテカルロで行なわれた「2019FIMアワードセレモニー」に出席。FIM会長、ホルヘ・ビエガスからゴールドメダルを授与される新井社長。

「昨年の9月でしたか、FIMから手紙をもらったんです。こういう理由で表彰したい、ついてはモンテカルロで全体会議をやるから、そこに来てくれないか、ってね」

アライヘルメットの代表である、新井理夫さんの元に届いた手紙は、長年にわたってライダーの安全に寄与し、モータースポーツの発展に貢献したということで、アライヘルメットを表彰をしたい、というFIMからの表彰式への参加呼びかけだった。

「そんな表彰なんてね、オレはいやだよ、って言ったんだけど(笑)、会社のみんなが行った方がいい、って言うんでね。めんどくさいのに、しょうがないな、って思ったんだけれど、今考えたら名誉なことですよ。うちの会社の考え方をきちんと認めて、推挙してくれたんだから」

アライヘルメットが授与された「ニコラス・ロディル・デル・バレ・ゴールドメダル」とは、モータースポーツの発展に寄与した個人や団体関係者に対しての名誉賞。対象がある時にだけ授与されるもので、制定以来40年弱、アライヘルメットが24番目の受賞者だ。

各国のレース団体の関係者やチャンピオンライダーに対する表彰が多い賞だが、ライダーの装具メーカーが受賞するのは、これが初めて。

画像: FIM総会後の授賞式に出席した新井社長。「僕は授賞式なんて柄じゃないよ、って言ったんだけど、社員が行った方がいい、って言うからね」(新井社長)

FIM総会後の授賞式に出席した新井社長。「僕は授賞式なんて柄じゃないよ、って言ったんだけど、社員が行った方がいい、って言うからね」(新井社長)

「モータースポーツの世界で表彰されるなんてね、名誉なことです。オートバイのレースなんて、ほんの40年前には、なかなか参入できなかった世界でしたからね」

アライヘルメットとモータースポーツのかかわりは、1970年代の半ば頃。当時のモータースポーツの本場のひとつであるアメリカに、アライが自社製品を持ち込んだのが始まりだ。

日本で初めての乗車用ヘルメットメーカーとして、より安全性を高めるべく、いちばん過酷な環境で使われる、オートバイレース、それも本場アメリカへの参入を決めた頃だ。

「当時のアメリカではベルなんかが幅を利かせていてね、日本の小さな会社が持ってきたわけ分からない物なんかかぶれるか、なんて風潮だったんです」

それでも、少しずつアライのユーザーが増えていき、ライダーの間でどうやらアライのユーザーは、転倒して頭を打っても、脳震盪を起こさずに立ち上がれるみたいだぞ、なんて評判がたちはじめたのだという。

70年代の終盤には、アメリカAMAスーパーバイクでもアライユーザーが増えはじめ、テッド・ブーディというライダーが初めての契約ライダーに。そして79年のAMAスーパーバイクチャンピオン、ウェス・クーリーもアライヘルメットのユーザーだった。これが、アライユーザーの初メジャータイトルだったかもしれない。

日本初のヘルメットの社会的意義と責任の大きさ

画像: 日本初のヘルメットの社会的意義と責任の大きさ

アライヘルメットのルーツは、明治35年、東京・京橋にできた「新井帽子店」。初代の新井唯一郎がはじめた帽子店は、昭和に入って先代の新井広武によって保護帽製造業となり、安全帽や乗車用ヘルメットの製造もスタート。

陸軍の兵士が、狭い戦車内で頭をぶつけても大丈夫なようにかぶる保護帽、工事用や消防隊、警察官がかぶる安全帽を作る、日本初のヘルメットメーカーが誕生したことになる。

「うちのオヤジが日本で初めてのヘルメットを作って、そこからヘルメット製造がひとつの産業になっていったんです。私も学校を出て手伝うようになったんだけれど、海外のメーカーはこんなことやってるよ、あれもやろう、これもやろう、なんてアイディアを出したら『それならお前やれ』ってね」

この頃、理夫社長の心境の変化もあった。ヘルメットメーカーとしての責任、意義の大きさを、あらためて感じたからだ。

「社会に出てね、ヘルメットメーカーよりも大きな商売、大きな仕事はたくさんありますよ。それでも、ヘルメットというものは、人の頭を、つまり命を守るもの。こりゃぁ意義の大きい仕事なんじゃねぇかな、って思い直したんです。男子一生の仕事としてね」

製造販売業として考えるより、社会的意義の大きな産業としてのヘルメットメーカー。このあたりで、理夫社長の考えは決まった。

「ひとりでも人の命が救えたらいい。どこのライバルよりも安全なヘルメットメーカーになる」

60年代になると、日本にも本格的にオートバイという文化が根付き始め、65年にはヘルメット着用が義務化。この頃アライは、乗車用安全帽として、日本初のJIS規格表示工場となっている。

「レースというのは、いちばん過酷な状況でヘルメットを使う環境かもしれないけれど、ある意味、サーキットではなくて一般の街中の方が危険だったりもする。だから私たちは、少しずつ、やらないよりはやったほうがいい、ということを積み重ねて製品を作ってきたんです。それはずっと変わらない」

ガラス繊維と樹脂を使ったFRP帽体に、繊維と繊維の間に厚みのある合成繊維を挟み込んで成形。その構造は、ずっと変わらない。構造、素材、形状、どれひとつをとっても、絶対安全という決定打はないけれど、そのひとつひとつが組み合わさって頭部を守るのだ。

「お百度参りだってさ、何往復目が効いたなんてわかりゃしないじゃない。それと同じなんですよ。うちの社員が、職人が考え、組みこむ小さな部品のひとつひとつが人の命を守っているんです。これは尊い仕事だな、って思うんですよ」

画像: 1904年スタートのFIMから授与された、地球上に24個しかない金メダル。他にも銀メダルや銅メダルも制定されている。

1904年スタートのFIMから授与された、地球上に24個しかない金メダル。他にも銀メダルや銅メダルも制定されている。

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