2017年、ダカールラリーの日本人唯一の参加者にして、初出場初完走!風間晋之介は、あの風間深志のジュニアとしてアドベンチャーの究極に挑んだ。大仕事をなし終えて数か月、晋之介はまた、次の冒険の扉を開けようとしている。

2017ダカールラリー 日本人唯一出場で初出場初完走!

3歳、4歳。少年は、小さいころから、冒険する男を身近に見てきた。そして、自分の考えを持てるようになるころ、冒険家がやっていることを、つまり父のすることを、少しずつ理解するようになっていった。

「友だちのお父さんは、毎日会社に行ったり、毎日きちんとウチに帰ってきたり。それでも、僕のオヤジは違ってた。でも、僕にとってはそれが普通だったんですけどね」

風間晋之介 ── 失礼ながら、彼の名は知らなくても、彼の父の名前なら、オートバイ乗りはみんな知っている。風間深志。そう、晋之介は、あのキリマンジャロ、エベレストにバイクで登り、そして北極点と南極点にバイクで到達した世界記録を持つ、日本人初のパリ・ダカールラリー出場ライダー、風間深志さんのジュニアなのだ。

画像: 残念ながら、父・深志さんのケガが思わしくなく、ライダーとして親子で、という夢こそかなわなかったが、父はサポートとして同行し、息子のたくましい成長を見ていた。「見ていてね、オレも走りたくなっちゃった! でも無理だからね、クワッドででも参戦しようかな」と風間さん。親子鷹は、もう2018年ダカールラリー参戦に向けて動き始めているようだ。

残念ながら、父・深志さんのケガが思わしくなく、ライダーとして親子で、という夢こそかなわなかったが、父はサポートとして同行し、息子のたくましい成長を見ていた。「見ていてね、オレも走りたくなっちゃった! でも無理だからね、クワッドででも参戦しようかな」と風間さん。親子鷹は、もう2018年ダカールラリー参戦に向けて動き始めているようだ。

蛙の子は、やはり蛙である。風間深志ジュニア、冒険の国へ

風間さんが「冒険家」として名を馳せるきっかけになったのは、1980年のキリマンジャロ登攀だろうか。けれど、この頃まだ風間家の三男坊、晋之介は生まれていない。

「幼稚園くらいからですかね、オヤジがどんな人なのか、なにをしている人なのか、おぼろげながらわかってきたと思います。北極へ、南極へ行くオヤジを、命を懸けて準備する姿を、カッコよく見ていました。幼稚園児にしてみたら、お父さんは何でもできる、子供にとってはスーパーマンじゃないですか」風間さんが北極点到達を果たした時、晋之介はまだ3歳、南極到達は8歳の頃。この後、晋之介はオートバイに乗るようになり、小学5年生の頃には自分のバイクYZ80も手に入れる。

レースにハマったのも、この小学校高学年〜中学生の頃だ。「中学生になったら、自分でもモトクロスを始めていたし、観戦に出かけたスーパークロスにハマりましたね。僕もあれやりたい、って中学生までしか出られない日本のキッズスーパークロスに出て、中学を卒業したら、高校に入学して、そのままアメリカに留学したんです」

スーパークロスの本場はアメリカだ、と1年間のアメリカ留学。帰って来たころには、晋之介は国内のモトクロスでもポイントを積み重ね、ライセンスもどんどん昇格していった。国内B級からA、そして国際B級に昇格してからは、全日本選手権モトクロスにも参戦する。

毎日もうイヤだと思った。終わった今、また出たい

画像: 風間晋之介 profile 現在の肩書きは、ライダー、俳優。出演作品は、沖縄映画祭に出展予定のGACKTさん主演「カーラヌカン」 1984年東京都生まれ

風間晋之介 profile
現在の肩書きは、ライダー、俳優。出演作品は、沖縄映画祭に出展予定のGACKTさん主演「カーラヌカン」 1984年東京都生まれ

「ただ、それからケガも続いてしまって、国際A級に上がるまで5年もかかりました。昇格したらすぐ腰の骨を折って、長期欠場。それが2010年です。その頃には、僕はもう25歳になっていて、このままレースを続けて、チャンピオンになって、モトクロスでプロに……とはならないな、って思い知ったんです」

それから晋之介は、前からやってみたかったという俳優の勉強をスタート。プロダクションの養成所で勉強をし、舞台、映画に出演もした。しかし、いつしか晋之介も30歳。30歳と言えば、父がキリマンジャロへアタックした歳。32歳の時には、パリ・ダカールラリーに、日本人として初めて参戦している。

「パリダカ ── いつか出たいな、とは小さい頃からずっと思っていましたね。いつからか、オヤジと一緒に、ふたりでライダーとして出たい、っていう風になって。僕が30を越えて、オヤジは60を越えました。僕がまだ一線級で走れて、オヤジが元気なうちに、もう時間はなかった」

実はこの時、父である風間さんは、大けがを負っていた。04年、22年ぶりに出場したダカールラリーで、暴走したトラックと衝突、左足に重傷を負い、レースをリタイヤするどころか、帰国してからも長期入院を余儀なくされてしまったのだ。もう時間はない。ダカール参戦を決意した晋之介は、手始めに初の海外ラリー、15年のバハ1000に参戦する。オフロードを走る、という点では同じだが、決められたコース内を周回するモトクロスと、オープンフィールドをコマ図を使ってルーティングしていくラリーは、まったく別のもの。晋之介はここで、ラリーライダーへ「転向」するのだ。

画像: 1日走り終え、ビバーク地に着くと、ライダーみんなで食事をとり、明日の支度とブリーフィングを済ませ、ルートに沿ってコマ図をチェックしていく。これをいかに早くこなすかが、ライダーの休息時間を左右することになる。

1日走り終え、ビバーク地に着くと、ライダーみんなで食事をとり、明日の支度とブリーフィングを済ませ、ルートに沿ってコマ図をチェックしていく。これをいかに早くこなすかが、ライダーの休息時間を左右することになる。

「バハは、何もかも新鮮でした。果てしない荒野の向こうに海が見えて、サボテンの森や、地平線まで続くダートの中をずっと走るんですよ! レース中にミスコースしたことがあったんですが、その途中に会ったほかのライダーと、情報交換をしたり、水や食料、ガソリンまで分け合ったり、まわりはみんな倒すべきライバル、というモトクロスとは、何もかも違ってました。あ、ラリーってこういう競技なんだ、競争相手だけれど、みんな仲間なんだ、って思って、バハが終わるころにはラリーが大好きになってました!」

16年5月には、モロッコのメルズーガラリーにも出場。これで、正式に17年ダカールラリーへの参戦が認められるのである。

<後編へ続く>

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