尾藤部長の愛車はマニア垂涎のスーパースポーツ

1967年シーズン限りでロードレース世界GPから撤退、ワークスチームとしてのレース活動を休止したホンダ。それから8年を経た1975年、ホンダは久々に国際レースへの復帰を決断。HERT(ホンダ・エンデュランス・レーシングチーム)を結成、ヨーロッパ耐久選手権へのチャレンジを開始した。CB750FOURをベースに、DOHC化などの大改良を加えたワークス耐久レーサーRCBを開発し、瞬く間に世界の耐久レースを席巻するようになっていく。

画像: HONDA CB1100R ●エンジン型式:空冷4 ストDOHC4 バルブ並列4 気筒●総排気量:1062cc ●最高出力:120PS/9000rpm ●最大トルク:10.0kg-m/7500rpm ●重量:235kg ●燃料タンク容量:26L ●前・後ブレーキ:ダブルディスク・ディスク●前・後タイヤサイズ:100/90-18・130/80-19 ●発売年:1981 年※諸元は1983 年モデル

HONDA CB1100R
●エンジン型式:空冷4 ストDOHC4 バルブ並列4 気筒●総排気量:1062cc ●最高出力:120PS/9000rpm ●最大トルク:10.0kg-m/7500rpm ●重量:235kg ●燃料タンク容量:26L ●前・後ブレーキ:ダブルディスク・ディスク●前・後タイヤサイズ:100/90-18・130/80-19 ●発売年:1981 年※諸元は1983 年モデル

こうやって耐久レースで培われた技術を活かして、CB750FOURの後継モデルとして1979年にCB750F/900Fがデビューし、1980年には耐久レーサーもCB―F系ベースのRS1000へと移行していく。そして1981年には、さらなる高性能を追求したCB1100Rが誕生する。当時ヨーロッパなどで盛り上がっていた、大排気量プロダクションマシンによる耐久レースへの参戦を前提にしたレースベースモデルであったため、エンジンは排気量を1062ccにまで拡大され、最高出力120PSにまでパワーアップ。アルミタンク、FRP製カウル、シングルシート、ジェネレーターの小型化などのレーシーな造りを採用、フレームやサスにもRCB、RS1000で得られたノウハウが取り入れられた。

画像: バンク角を確保するために、エンジン右側のジェネレーターカバーがCB-F 系とは異なるCB1100R 専用パーツとされている。

バンク角を確保するために、エンジン右側のジェネレーターカバーがCB-F 系とは異なるCB1100R 専用パーツとされている。

画像: 厳密にはシングルシートだったのは1981 年モデルのみ。1982 年以降はダブルシートで、シングルシート風のカバーが装着できた。

厳密にはシングルシートだったのは1981 年モデルのみ。1982 年以降はダブルシートで、シングルシート風のカバーが装着できた。

しかも手組みで生産される、当時としては破格のスペシャルマシンだった。1981年のRBはネイキッド仕様、ハーフカウル仕様があったが、1982年のRCからフルカウルのみとなり、フロントホイールの18インチ化など足周りを改良。1983年のRDで生産を終了、3年間で約2500台しか生産されていない希少なマシンだ。

画像: ©️新谷かおる

©️新谷かおる

画像: 尾藤 関東大学自動車部オートバイ科部長。岡山在住。沢渡が初めてサーキットを走った際は、沢渡を引っ張って走るなど後輩の面倒見も意外と良い。大胆な一面もあり、部費が足りないと競走技世界一へ参戦を決めたり、そのために愛車のCB1100Rを売ってレース資金をねん出しようとしたりする。競走技世界一では借り物競走で脱落。お題は「江ノ島で女の子と写真を撮ってくる」だったが、お年寄りとしか写真を撮れなかったため。沢渡がデイトナ200に参戦した時にもピットクルーとしてヘルプに来ていた。©️新谷かおる

尾藤
関東大学自動車部オートバイ科部長。岡山在住。沢渡が初めてサーキットを走った際は、沢渡を引っ張って走るなど後輩の面倒見も意外と良い。大胆な一面もあり、部費が足りないと競走技世界一へ参戦を決めたり、そのために愛車のCB1100Rを売ってレース資金をねん出しようとしたりする。競走技世界一では借り物競走で脱落。お題は「江ノ島で女の子と写真を撮ってくる」だったが、お年寄りとしか写真を撮れなかったため。沢渡がデイトナ200に参戦した時にもピットクルーとしてヘルプに来ていた。©️新谷かおる

協力:株式会社KADOKAWA

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